創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

「気楽に~」渡辺氏。いままで散々指摘してきたが、いよいよこの輩が正体を露呈してきた。
だいたい日蓮という人の法華経解釈そのものがどこかイっちゃってる感じがしますよね?(笑) 道元の法華経解釈の方が、より釈迦の思想に近いと思います。 法華経を根本としつつ、道元と日蓮という二人の解釈が出たことをもっと考えるべきかと思います。twitter
まるで日蓮が頭がおかしい人物かのように断定しているのである。「イっちゃってる感じがしますよね?(笑)」と揶揄するほど馬鹿にしているのだ。もはや日蓮に対する敬意など微塵も無いのである。これを見て怒りを覚えない日蓮信徒がいるのだろうか。

一体、この輩は何時まで日蓮に粘着するつもりなのだ。そもそも自分から「私は日蓮から離れて龍樹思想の信仰を求めています」と告白しているではないか。ならば、もう日蓮に固執する必要など微塵もないだろうに。日蓮について語る資格など一切ないのは明白である。さっさと敬愛する龍樹や、一目置いている道元あたりを讃嘆する記事でも書けば良いだろう。

この輩が本当に関心のある対象は龍樹思想である。実は、少し前に「中論」のネタ記事を幾つか書いていた。だが、読者の食いつきが悪く不評だったので、その後は二度と書かなくなった。その埋め合わせに、食いつきが良い創価関連や宗門関連や日蓮関連のネタを中心に書いているのだ。

要するにこの輩は、自分のブログやTwitterの喧伝の為に創価ネタや宗門ネタや日蓮ネタを書いているに過ぎないのだ。しきりにアクセス数を自慢しているのが何よりの証拠だろう。何の宗教的信念もない軽薄な最低の人間なのである。

法華経に説かれる登場人物で、最も中心的な菩薩は、神力品にて滅後の付嘱を受ける上行菩薩と(率いている)地涌の菩薩であり、実践(弘通)の上で最も重要なのは不軽菩薩であるのは明らかだろう。

仏教美術の人気のテーマは

仏法の北伝ルートでは、インドからシルクロードを通じて中国へ伝来し、やがて朝鮮半島へ、到来するのだが、それらの地域での仏教美術について着目してみたい。かつて、シルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市であった敦煌。その敦煌近郊に有名な莫高窟があるが、そこに描かれる壁画で一番多いのは観音菩薩と弥勒菩薩であったようだ。中でも観音菩薩が一番人気であったらしい。

残念ながら、地涌の菩薩と不軽菩薩は、法華経のストーリーを紹介する程度に僅かに描かれる程度であるらしい。同様に、中国や朝鮮半島でも、絵画や彫刻の作品のテーマになることは無かったようだ。

観音信仰が広がった理由

では何故、観音菩薩が人気であったか。それは観音菩薩の名前を唱える人は誰でも、交通事故や、種々の災害や、強盗や殺人などのあらゆる災難から守られると説かれている。或いは、男の子が欲しい人には男の子が、女の子が欲しい人には女の子が授かる願いを叶えてくれると説かれる。さらに、この菩薩の助けを求める人の為に、いつでもどこでも相手に応じて33種類の姿で現じて救出してくれると説かれているからだという。

この現世利益信仰に飛びついたのが、シルクロードの商人達であったり、中国の一般層や支配層であったのだ。

敦煌では、シルクロードを往来して貿易を営む商人達の発願で観音像が多数描かれた。旅の無事の祈りを込めたのだ。キャラバンが中国から西域を目指す時に、砂漠の中を通らなければならない。過酷な環境下で命を落とすリスクが高い。そこでは盗賊に襲われる危険もある。そのような時に、観音菩薩の名前を呼べば救われると観音品に説かれている。これぞ彼らの望んでいた現世利益なのだ。飛びつくのも無理からぬことだ。

中国では元来、祖先崇拝が盛んだった。強固な父系社会であり、祖先を敬うことは社会秩序の維持のためにも重要であったと考えられている。よって男子がいないと祖先崇拝が断たれて、自分が死んだ後にあの世で迷うしかない。だから、男の子を産まないものは、親不孝者と見なされた。このような慣習があるところに法華経・観音の教えが伝わった。観音の説く利益を聞いた人々は、何としても男の子に恵まれたいと藁にもすがる思いで飛びついた。こうして子宝信仰として広く普及していった。

このようにして観音菩薩は、アジア全域を通じて崇拝されるようになった。

受け身の信仰姿勢

観音品は、それを読誦する人に、観音菩薩によって救ってもらうという受け身の立場を取らせようとする。観音は私達にとって『何かをしてくれる菩薩』であるが、法華経で本来の理想とする菩薩は私達『自らが菩薩となって利他行に努める』ものであった。地涌の菩薩も不軽菩薩もそうである。

このように、北伝ルートの地域に住む大半の人々は、法華経が本当に伝えたかった事が理解できなかった。地涌の菩薩としての自覚と誇りを持ち、偉大なる妙法弘通を誓願する信徒では無かった。不軽菩薩のように、相手がどのような態度を取ろうと、相手に仏性があるのを信じ抜く。そのような不屈の精神を受け継ごうとする信徒は殆どいなかったのだろう。残念である。



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現実社会で、殆どの人間が犯罪に手を染めないのは、法治国家であり、警察制度が確立されているからだろう。犯罪が判明すれば、国家によって裁かれ罰を受ける。社会的な地位を奪われ、周囲からは軽蔑され、金銭的にも苦境になる、身内からは離縁される、子供もイジメに遭うリスクが高い、まさに破滅である。だからこそ、犯罪を抑制できているのだ。

もしも露呈しなければ、人間は悪いことでも平気でやろうとするだろう。

企業が産業廃棄物をこっそりと私有敷地内に埋めていた。数年、或いは10年以上発覚しなかったが、とうとう正義感の強い内部告発者が出て、それがきっかけで発覚した。そのような事件は枚挙に暇が無い。記事1 記事2 記事3

国家の法治が及ばない所、露呈がないと思われる所、信仰を持たない人間ならば平気で悪事でもやるだろう。しかし世の中の多くの人間は何らかの宗教を信じている。イスラム教でもキリスト教でも仏教でも、死後の裁き・死後の生命が説かれている。

一神教の信者はこう思う「誰も見ていないし、監視カメラも無い。絶対にバレることはない。でも神様は見ておられる。自分が死んで、神様に裁かれる時が怖い」だからこそ、そのような条件下でも踏みとどまる抑制力になっているのだ。


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信仰活動を続ける上で、疑問や、時には批判意見が起こるのは当然であろう。それに対していかに誠実な姿勢で向き合うかが大切になってくる。それぞれ、どのように対応しているか考察していきたい。

大聖人の姿勢

日蓮仏法の原点である大聖人の姿勢を拝したい。大聖人は「智者に我義やぶられずば用いじとなり」(開目抄)と、自分が全生命を懸けて築いてきた理念・教義・行動が、もっと優れた智者に破られるまでは捨てることは無い、と宣言されたのである。ここに疑問や批判を拒否する姿など微塵も感じさせない。「批判があるなら、いくらでも来るが良い」との堂々とした姿勢であられる。

池田名誉会長の姿勢

池田名誉会長は、創価大学の第1回滝山祭で、批判意見に関して次のように述べている。
「そこで私が申しあげたいのは、創価大学に対しても、創立者に対しても、批判をしてはいけないということは一つもありません。いくらでも批判してけっこうです。また、私はご存じのように創価学会の会長であります。創価学会に対しても、信仰についてもいくらでも批判しても結構です。大学としても、学会としても、また私としても、反省すべきことは反省しなくてはならないし、改めるべき点はいさぎよく改めねばならない。諸君が創価大学に学んでいるのだから大学のことをはじめ、すべてに対して厳しい発言ができないなどという考えは、誤りである。皆さんが真剣に物事を思索し、言いたいことがあれば、何を言ってもよいし、いかなることを論じてもよい。自由奔放であっていただきたい。これだけは、はっきりと申し上げておきます。」(創価大学学生自治会編『創立者の語らい1』より)
疑問や批判があれば幾らでも上げるべきで、間違っていれば反省をし、改める必要性を説いているのである。非常に重要な発言である。組織の自己浄化作用には絶対に必要な要素であろう。

現在の創価の姿勢は

だが残念ながら、今の創価組織には、この姿勢は微塵も感じられない。会則や教義に対して疑問の声をあげれば、一応はマニュアル通りの回答はくれるが、それでも納得しない場合は、迷惑がられ避けられるようになる。それでも質問を続ければ、組織から無視されるような扱いを受ける事もある。

或いは、もっと本源的な所まで切り込む場合、つまり(選挙支援活動など)組織の方針に反対意見をあげれば、すぐに厳重な注意・指導がなされる。それでも反対行動を止めない場合は、その人を(除名という形で)排除するのである。

今の創価に欠けているのは、疑問や批判に真正面から丁寧に回答することだろう。会則変更に関しての疑問や批判もマトモに答えない。過去の歴代会長の発言との整合性の矛盾を指摘されても「事情が変わった。大謗法の地になったから」の一点張りである。挙句の果てに「ネットを見るな、信じるなという打ち出しがきている」そうである。(報道特集2017年5月27日)

現場の活動家達は疑問があっても、忌憚なく議論できる場など無い。質問をしても、その答えが「池田先生が作られた公明党だから信じる、同志を疑っちゃダメ」「本部の人達は池田先生に近い、薄給で頑張ってる同志達だから」「先生がお元気なうちに大勝利でお答えしましょう!」こんな答えにもなってないような言葉で納得せよというのである。

疑問を忌憚なく話し合える場を

宗祖や、かつての池田名誉会長がそうであったように、座談会や様々な会合の場で、疑問や批判があれば遠慮せずに意見を言える懐の深い姿勢が大事なのだろう。選挙支援活動に関しても、疑問があれば気軽に何でも話し合える場が必要なのである。


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法華経の嘱累品は、菩薩達に相対的に付嘱されている為に、『総付嘱』と呼ばれている。
この嘱累品の考察をずっと続けているが、私にとって解釈が非常に難しい品である。幾つかの疑問点・重要な個所を挙げてみる。

なお、サンスクリット語原典のテキストには、植木訳を用いる。岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、テキストとして用いるのは適切ではない。

釈尊が頭をなでる行為

鳩摩羅什訳には
爾時釈迦牟尼仏。従法座起。現大神力。以右手摩。無量菩薩摩訶薩頂。

爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて
とあり、釈尊が無量の菩薩達の頭をなでている記述がある。これを三回繰り返すのである。これを『三摩の付嘱』と呼び、天台宗、日蓮仏法では重要な意味を持たせている。

ところが、サンスクリット語原典には、
(釈迦牟尼)如来は、その法座から立ち上がって、それらのすべての菩薩達を一まとまりに集合させ、神通の顕現によって完成された右の掌で、[それらの菩薩達の]右手をとって
とあり、「(一つの)右の掌で無数の菩薩達の右手をとった」と記述されている。ここに「頭を撫でる」という表現はない。

この違いは何なのだろうか。何故、鳩摩羅什は頭を撫でるという翻訳をしたのだろうか。

何を付嘱されたのか

サンスクリット語原典にはこう記述されている。
「良家の息子(善男子)達よ、幾百・千・コーティ・ナユタもの数えきれない劫をかけて達成したこの上ない正しく完全なこの覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を、私は、あなたたちの手に託し、付嘱し、委ね、委嘱しよう。
良家の息子達よ、[その覚りが]広く普及し、流布するように、そのようにあなたたちはなすべきである」
この上ない正しく完全なこの覚り(阿耨多羅三藐三菩提)が対象として記述されている。
では、これは法華経そのものを付嘱したという解釈でよいのだろうか。
(なお、ここで良家の息子(善男子)達よ、と呼び掛けているが、目上の人(如来)が菩薩に対して、このような呼び方をする事は許される。従って、対象は菩薩達である)

一方、神力品では次のように明記されている。
シャーキャムニ(釈迦牟尼)という名前の正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来がおられる。その[如来]は今、広大なる菩薩のための教えで、すべてのブッダが把握している”白蓮華のように最も勝れた正しい教え”(妙法蓮華)という名前の法門である経の極致を、偉大な人である菩薩のために説き示しておられるのだ。
あなたたちは、その[法門]を高潔な心をもって喜んで受け入れるがよい。
付嘱の内容は間違いなく『白蓮華のように最も勝れた正しい教え』(妙法蓮華経)であることが判断できる。

ところが嘱累品では、神力品のように明記されていない。故に、解釈が難しい。

仮に、嘱累品でも妙法蓮華経が付嘱されたとすれば

つまり、神力品と嘱累品は全く同じ法門が付嘱された事になる。

ここで法華経のストーリーを確認してみたい。法師品以降は、釈尊滅後の弘通がメインテーマとなってくる。従地涌出品で、迹化の菩薩や他方の菩薩達は、釈尊滅後の娑婆世界での布教を誓願するのだが、それを釈尊は「止みね善男子」「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止して、
「所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん」
と地涌の菩薩達を呼び出す。そして神力品で(上行菩薩と率いている)地涌の菩薩達に法華経の付嘱を行う。いわば本命中の本命にバトンタッチを行ったのだ。ここまでのストーリー展開は無理がなく納得が出来る。

ところが、この後で、同じ法門を、迹化の菩薩や他方の菩薩達に付嘱する理由がわからない。今までの流れは一体なんだったのだ。という疑問が湧いてくる。

神力品での付嘱で虚空会の儀式は終わり、散会すれば良かったのではないだろうか。

何も託さないというのも

ただし、何も託さないというのも可哀想だろう。これまでのストーリー展開を振り返れば、釈尊は滅後の布教の覚悟を促している。勧持品では、出家者達が「娑婆世界以外を布教します」と最も厳しい娑婆世界を避けた上での弘通を誓う。それを聞いた釈尊は、何も言わずに菩薩達の方を注視して更なる覚悟を促している。そのような経緯があって、菩薩達はついに決意し、従地涌出品の冒頭で娑婆世界での布教を誓願するのだった。

ここまでの覚悟を促したのだから、何らかの役割を託すのが妥当ではある。彼らには、(上行菩薩と率いている)地涌の菩薩達のサポートとしての役割を与えれば、一番スッキリとした展開になったと思われる。

巧みなる方便

別の観点として、巧みなる方便という記述から考察してみたい
良家の息子たちよ、私は大施主である。良家の息子たちよ、あなたたちも、嫉妬することなくまさに私から学ぶべきである。[あなたたちは]この如来の知見と卓越した巧みなる方便に達して、[この如来の知見と卓越した巧みなる方便を求めて]やってきた良家の息子(善男子)たちや、良家の娘(善女人)たちにこの法門を聞かせるべきである。
これを読むと、「嘱累品で付嘱された法門は、巧みなる方便によって弘通しなさい」という解釈も出来る。

しかし、そもそも方便品に於いて「今まで衆生を教化する為に、様々な方便を用いて化導してきたが、如来が本当に説きたかったのは『一仏乗』なのだ」と釈尊は明かされた。当然ながら、これ以降は方便を用いる必要が無いはずである。それなのに、嘱累品で、菩薩達に対して「再び方便を積極的に用いて布教をしていきなさい」というのは強い違和感がある。

ただし、現実に法華経を布教をする上で、様々な譬え(比喩)を用いるのは有り得ることだろう。そのような意味で『巧みなる方便』という記述を解釈することも出来る。つまり嘱累品の付嘱では、布教の具体的な実践方法まで踏み込んで表現されていた事になる。

総括すると

このように嘱累品は解釈が非常に難しい。現時点ではこのような見解を持っているが、見落としている部分があるのかも知れない。結論を軽々に下すのではなく、今後も考察を続けていきたい。


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『生かされるまま生きる』のイプシロン氏は、こう言い放った。
まあ、未だに『宿業』だとかいってる狂信者には縁もゆかりもない話だ。
というか、『業』なんてものは脳に記憶されたデータだから、死ねばなくなるだけのことだと知れば、宿業だ罰だ云々なんてものはお笑い草にすぎんのだ。エックハルトの言葉でいうならば、業とはペイン・ボディのことだからだ。似非仏教でいう業なんてものは、自分が何度も繰り返し思考したり行為した結果、脳に蓄積された習慣であり、何度も味わってきた状況に出会うと、湧きあがりやすい思考や情動にすぎないのだから。
仏法で説かれる業を『似非仏教』だと吐き棄てているのである。これほど愚かな思い上がりは無い。

死=無に帰するのならば

以下は、彼の主張に沿って考察してみる。

死ねば全てが無に帰するならば、この世の努力など何の意味があるのだろうか。それは『社会的に成功する為』ただその一点が回答になる。それ以外は全て無駄になる。

イプシロン氏は、作家志望ではあるが、(社会的に成功した作品を)何一つ世に出せてはいない。世間的には何の評価も得られていない、何の成功も為していない。ならば、彼の今までの努力は死によって全て無に帰するのである。誰にも彼の功績など語り継がれる事もない。何も残らない(この世に於いて何の成功の実績も無いのだから、当然である)

ならば彼は、何の為に努力するのだろうか。彼のライフワークである読書など、今更、社会的な地位向上に何の役にも立たない。読書や哲学など何の価値があるのだろうか。積み上げてきた知識など何の役に立つというのだ。

それよりも、残りの人生、享楽と欲望のままに生きた方がよっぽどマシというものだ。その方がよっぽど充実した余生を過ごせるだろう。旨い物をたらふく食い、旨い酒を浴びるように呑み、娯楽に興じた方が遥かに楽しく豊かな人生と言える。

三世の業を否定すれば、勝者のみが正義となる

仏法で説く『善業・悪業』を否定すれば、この世に於いて、どんなに悪い事をしても成功した者だけが世間的に評価されるようになる。バレなければ、成功者として尊敬されるのだ。

逆に、(イプシロン氏など)どれだけ影で地道に努力しようと、社会的に成功してない人物は何の価値もないと見なされる。どれだけ人の為に尽くそうと努力しようが、それが表に出ない限り、社会的には何の評価も得られない。ただの要領の悪い哀れな人だ。そして死ねば無に帰するのだ。要するに価値のない人生だったということになる。

イプシロン氏は、社会的には無価値と見なされ一生を終え、死後も無価値として存在すらスルーされるような人生なのだ。彼はそれで満足なのだろうか。要するに、彼は『三世の善業・悪業』を否定することによって、『人生の敗北者』たる彼自身を痛烈に否定しているのである。何と悲しい事か。

世の中の大半の人々は

(死後の世界を信じない)無神論者で、世の中の殆どの人は、このような状況に置かれた時に、果たして奮起しようとするだろうか。虚無感に覆われて残りの日々をただ絶望するだけではないだろうか。中には投げやりになって、ギャンブルや犯罪や麻薬に手を染める人もいるだろう。『死後の裁き』が無い『死ねば、どうせ無になるのだ』と思い込んでいるのだから、そのような発想になるのも仕方が無い。悲しい事ではあるが。

死によって消滅しないものを信じるからこそ、人は前向きに生きる事ができるのだ。だからこそ確固たる信仰を持ち『死後も消滅しない』と確信を持つ人は強い。


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法華経の如来神力品は結要付嘱と呼ばれている。釈尊が法華経の肝要をまとめて、それを付嘱するという極めて重要な品である。では一体、誰に付嘱したのか。意地の悪い輩は「上行菩薩だけに付嘱したという記述箇所は存在しない」などと難癖をつけてくる。そのようなものに惑わされない為にも、サンスクリット原典から正確に読み取る必要があるだろう。

以前の記事でも指摘したが、岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、テキストとして用いるのは疑問である。従って植木訳を参考に検討する。

すると、その時、世尊は、先ほどの[大地の裂け目から出現した菩薩の]群衆を従え、 大群衆を率いた群衆の師である それらの[四人]の偉大な人である菩薩達のうち、群衆を従え、大群衆を率いた群衆の師であり、 偉大な人である菩薩の ”卓越した善行をなすもの”(上行)という名前の一人の指導者に向かって仰られた。

”卓越した善行をなすもの”(上行)よ、素晴らしい事である。素晴らしい事である。 この法門のために、あなた達は、そのようになすがよい。 如来は、[既に]あなた達を完成させられているのである。
ここで
如来は[既に]あなた達を完成させられているのである
という文言に着目すると、
「如来(直々の化導)によって完成させられている菩薩」ということは、

従地涌出品にて
今、大地の裂け目から出現したところの[菩薩]たち、アジタよ、これらのすべての偉大な人である菩薩たちは、[私が]このサハー(娑婆)世界において、この上なく正しく完全な覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を完全に覚って後、私がこの上なく正しく完全な覚りに向けて鼓舞し、励まし、喜ばせ、成熟させたものたちである。

また、この菩薩のための法において、私はこれらの良家の息子たちを成熟させ、確立させ、導き入れ、確定させ、悟入させ、完全に覚らせ、完全に清らかにしたのである。
とある通り、これは釈尊が自ら、遥か久遠の昔から教化してきた菩薩、つまり地涌の菩薩達のことを指すのは自明の理であろう。

当然ながら、ここには迹化の菩薩や他土(他方)の菩薩は含まれていない。これらの菩薩達は「既に完成させられている」存在では無いからだ。

従って、その対象は、上行菩薩、及び、率いている無数の地涌の菩薩達ということになる。更に「あなた達は」と複数形で呼びかけているので、(上行菩薩と、率いている)地涌の菩薩達が付嘱の対象になると解釈するのが妥当である。


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以前に取り上げた『生かされるまま生きる』のイプシロン氏だが

日蓮仏法への純真な信を失い、どんどん狂った方向へ堕ちていってしまっている。最近は以下のような日蓮批判を執拗に繰り返している。
法華経こそ最第一の経典である。仏教は「平等」こそ真理と説いてはいるが、法華経が最も優れていると説いてよいなどといった「法華の慢」だけは許されるとかなんとかいって、他を見下す「見解」をしてる時点で、日蓮の見解など信用が置けないということだ。

日蓮仏法は三世永遠の因果の法則を完全に説き明かしたとか、昔は愚かにも信じていたが、今では迷妄であったと恥ずかしいかぎりだ。

日蓮の行動と彼のしたためた本尊の相貌云々を調べれば調べるほど、日蓮の支離滅裂さ、攻撃的であり、武力を肯定し、民衆仏法などと決して呼べず、平和主義でも何でもないことが見えてくるのだ。もはや、わたしなど、勤行・唱題もしてませんけどね。曼陀羅も必要ないと月々日々に思うようになっているくらいだ。

ゆえに、今更、支離滅裂な日蓮の曼陀羅本尊など、わたしには必要ないと結論したわけだ。
彼は、仏法による三世の法則を信じていない。或いはキリスト神による死後の世界を信じていない。初期仏教の『空の概念』を、単なる観察に利用しているだけである。もはや、これは立派な無神論者であろう。
やれ御本仏だの、前世だの来世だの宇宙生命論だの、宇宙意識だの。馬鹿なんじゃないかと。 生命なんか存在しません。あるのは生命現象だけ。ただの事象。だから魂もないんですよ。あるのは情報とエネルギーと物質が併存する「場」だけなの。その場のことを魂と呼ぶのは人の勝手ですがね。でも本当のところは、場に一時的に生命現象が現れてるだけのこと。

自分自身を信仰の対象に

挙句の果てに、とうとうこんな事まで言い出した。
「信じることもまた執着。自分の信仰すら棄て去れ」(スッタニパータ)
自分の信仰を持つのではなく、自分を信仰の対象にする。
つまり、自分を信じることが仏教の極意なわけだ。
スッタニパータの一文を、自分勝手に切分解釈して、とうとう、自分の信仰を持つのではなく『自分自身を信仰の対象』にするとまで言い出したのだ。揺れ動き移ろい易い己心を本尊とするとは。『我見解釈』もここまでくると恐ろしくなる。

日蓮大聖人は「『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とは、六波羅蜜経の文なり」と
厳しく戒めておられる。

もはや彼の主張は、ドストエフスキー著『悪霊』に登場するキリーロフと酷似しているではないか。キリーロフは無神論の究極の行きつく先、いわゆる『人神論』を展開した。「苦痛と恐怖に打ち克つ者が、自ら神になる 。そして、あの神はいなくなる」と。そう宣言したキリーロフの、その悲惨な結末は誰もが知る所だが。

彼はニーチェ哲学に心酔してるらしいが、晩年のニーチェのように発狂するような事にならねば良いが。

イプシロン氏を狂わせたもの

日蓮仏法を信仰の根本にしていた頃のイプシロン氏は純粋であり魅力があった。数年前に、創価活動家の『ちよ氏』や『ラン氏』らと同盟題目を上げて仲良く交流していた頃の『純粋な彼』は何処に行ったのだろうか。池田名誉会長の『青春対話』を目をキラキラさせながら愛読していた彼は何処に行ったのだろうか。

一体、何がイプシロン氏をここまで狂った思考に陥らせたのだろうか。蓮華は泥の中でも美しい花を咲かせるが、彼は現実のドロドロとした事に耐えられずに花を咲かせる前に萎れてしまったのだろうか。傷つきやすい心がポキっと折れてしまったのだろうか。




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御義口伝の中で最も項目が多いのは、寿量品(27個)でもなく、方便品(8個)でもない。常不軽品(30個)である。不軽品はそれほど長い品ではない。方便品の方が遥かに長い。にもかかわらず大事の項目数は圧倒的に多い。ここに重大な意義があるのではないか。そして御義口伝の真実性も感じる。

大聖人は不軽菩薩品を特に重要視されていた。諸御書を見れば明らかである。
「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」(聖人知三世事)

「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し」(寺泊御書)

「今も亦是くの如し、彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり、得道の時節異なりと雖も成仏の所詮は全体是れ同じかるべし。」(教行証御書)と、得道の時節は像法と末法と異なるが、下種益での成仏の原理に於いては同じであると仰せである。

弟子達の前でも、佐渡でも身延でも、あらゆる所で不軽菩薩の重要性を講義されたのだろう。その御心を日興上人は受け継いで後にまとめられたのだろう。だからこそ御義口伝で最も多い項目になったのではなかろうか。


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想学談林「運ちゃん」氏だが、最近の記事
人の死と死後の事について、また輪廻転生という事について、御書で語る事が出来ますか?

日蓮正宗に伝わる教義では、人間の死有の事や死後の事、そして輪廻転生の事については明確に語り切れないという事を顕しているではありませんか?
と決めつけているが、本当にそうなのだろうか。御書を幾つか拝読してみたい。

「乞い願わくは悲母我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて・故南条殿・故五郎殿と一所に生れんと願はせ給へ、一つ種は一つ種・別の種は別の種・同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし」(上野殿母御前御返事)

「此の経を持つ人人は他人なれども同じ霊山へまいりあわせ給うなり、いかにいはんや故聖霊も殿も同じく法華経を信じさせ給へば・同じところに生れさせ給うべし」(上野殿御返事)

日蓮大聖人は、純粋な信心を貫き通した信徒に対し、次の世でも、親子一緒に法華経の国に生れると明確に仰せなのだ。このように枚挙に暇が無い。どうやら彼は、御書を中途半端に研鑽してしまっているようだ。

「僕の考えた日蓮像」ありきの思考

運ちゃん氏は、我見が強すぎる為に、『自分勝手な日蓮像』を作り上げ、御書を読んでいても「日蓮はこうあるべき」という固定観念から正しい解釈ができないのだ。「自分の都合の良い箇所だけ抜き取り、都合の悪い場所はスルーする」癖がついているから肝心な部分を見逃してしまうのである。

特に彼の悪癖は、法難や瑞相を完全にスルーする点である。大聖人が、自界叛逆難と他国侵逼難を的中させた事も、運ちゃん氏は「日蓮には広い人脈があり、諸国の事情が入ってきたから」という勝手な解釈を披露している。要するに彼は「己が理解できない現象」を完全否定しなければ気が済まないのだ。

こんな姿勢で日蓮仏法を研鑽しようとすること自体が残念である。

死後の生命に関心があるようだが、その答えを、チベット仏教だのNDE(臨死体験学)だのに求めても、却って様々な情報に混乱して迷うだけだろう。僅かの知識をこねくり回すだけの『観念の遊戯』に過ぎない。



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