大石寺第26世である日寛師が書写した本尊のベースは戒壇本尊とされている。
日寛師は、大石寺系で、戒壇本尊が根源であると言い出した原点の人である。その書写本尊を使用するのならば、その根源である戒壇本尊を「受持の対象にする」のが大前提であろう。
日蓮仏法は「受持即観心」の法理であるから、受持とは「信受する」「信じる対象とする」ということである。
ところが創価は2014年の会則変更で突然、戒壇本尊を「受持の対象としない」と言い出した。つまり「信受の対象にはしない」ということである。しかし、日寛師の書写本尊は今まで通り使い続けるという。
根源である戒壇本尊を信受の対象から外しておいて、その枝流である書写本尊だけを使用し続けるというのは、誰がどう見ても筋が通って無いだろう。明らかに日寛師の教学に反する行為である。
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法華取要抄文段の中でと書写本尊は枝流であり、戒壇本尊こそが根源であると言い切っている。
「 広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり」
日寛師は、大石寺系で、戒壇本尊が根源であると言い出した原点の人である。その書写本尊を使用するのならば、その根源である戒壇本尊を「受持の対象にする」のが大前提であろう。
日蓮仏法は「受持即観心」の法理であるから、受持とは「信受する」「信じる対象とする」ということである。
ところが創価は2014年の会則変更で突然、戒壇本尊を「受持の対象としない」と言い出した。つまり「信受の対象にはしない」ということである。しかし、日寛師の書写本尊は今まで通り使い続けるという。
根源である戒壇本尊を信受の対象から外しておいて、その枝流である書写本尊だけを使用し続けるというのは、誰がどう見ても筋が通って無いだろう。明らかに日寛師の教学に反する行為である。
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