創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

信仰の目的はあくまでも自分の生活の充実であり、家族や友人の幸福である。その為に御書を根本に祈りを根本に日々の生活を充実しようと努力する。仏法対話も一人一人と一生をかけて続けるものであろう。どこかの組織に放り込めば広宣流布完了というものでは決してない。

組織というのは、あくまでも補助である。組織も時代によって変化する。必要に応じて変化する。戦後直後の戸田会長の時代は、東京の幹部が九州の人を折伏すれば、九州の人でも東京の会合に毎回通っていた。当時は指導の手段も乏しかった為に中心である東京中心の活動にするしか無かったのだろう。それが会員数の増加、連絡手段の発達に伴い段々と変化し、地方・地域単位となっていった。御書も出版物も普及が進んだから地域単位で指導ができるようになったのであろう。

今はネットで日本中・世界中の人と交流が持てる時代になった。御書や各種資料もネット上で閲覧できる環境になった。もはや固定的な枠組みに縛られる必要はない。時には組織の枠を飛び越えて自由に交流すれば良い。学会や宗門の人の区別なく交流するのも良いだろう。
将来的にはVR機能を利用したバーチャル座談会というのがあってもいい。例えば、沖縄と四国と東京と北海道の同志達で、遠隔地で物理的に直接会って対話が難しい場合など、ネット座談会ならすぐに集えて有意義な対話ができるだろう。

大事なのは、組織維持の為の活動、「会合の為の会合」をやるのではなく、一人一人の生活を良くする為に、人と会い対話を重ね糧にしていく事であろう。


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創価学会、日蓮正宗、顕正会。日興門流の代表的な教団組織がある。どれもが互いに批判している現状である。やれ「ニセ本尊」だの、やれ「日顕宗」だの。
宗門は登山に躍起になり、創価学会は大誓堂詣で、選挙活動に躍起になる。顕正会は、終末思想で強引すぎる布教活動を繰り返している。

これでは信者は組織主義に陥ってしまう。自分の幸福の為に信仰をしているのに、選挙屋になってしまっている。おかしなことである。

そもそも信仰の主体は自分自身である。諸仏の成仏の根源である寿量品の自我偈とは、自分自身のことである。「自とは始なり・速成就仏身の身は終りなり・始終自身なり・中の文字は受用なり」と大聖人は仰せである。自分の生活の幸福、家族や友人の幸福の為に日々活動するのが信仰者の本義であろう。組織はそのための補助(機関)に過ぎない。

ところが現状は全く逆になってしまっている。組織の打ち出しが全て正しいと思い込んでいる。「無疑日信の信心」で受け止めた結果「組織の為の人間」が造られてしまう。「人間の為に組織がある」のを忘れてはならない。

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現在の学会が組織信仰に陥っている最たる象徴である。『組織そのものが仏』など、究極の無謬性である。組織そのものに無謬性が与えられてしまうと、会長や執行部がどんな間違った方向に舵を切っても「創価学会仏は、仏意仏勅の正当な教団であるから正しいのだ」となり、もはや軌道修正することが不可能になる。

日興上人は

日興上人が富士門流『大石寺仏』と呼ぶような指導をされた事が一度でもあっただろうか?そんな事があるはずがなく、日興遺誡置文に「時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事」と訓戒されている。つまり将来、法主や、法主以外の執行部達が間違った方向に行く可能性も考慮されているのだ。「組織そのものを仏とする」ことが、どれほど危険なことか熟知されておられたのだろう。

創価の勝手な解釈

ちなみに法華経で、『組織そのものを仏』として授記された記述など無い。創価の説明によると、常不軽菩薩品に説かれている威音王仏を組織仏として独自解釈してるようだ。しかし、このような見解は経文の裏付けが全く無い。創価の勝手な解釈なのは明白である。

御書にも記述がない

創価は常に『御書根本』と主張しているが、大聖人の御書が根本というのならば「組織そのものが仏」と述べられた箇所が御書のどこに記されているのか、会員に向けて明示しなければならない。(当然ながら、そんな箇所はあるはずが無い)


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『無疑日信』の信心。非常に美しい言葉だが、この純粋さが利用されると、その組織の情報のみを鵜呑みにし、組織に盲従する人間が育成されるのである。特に60代以上の年配の方々はテレビや新聞が情報源であり、情報操作が容易である。情報源が聖教新聞と公明新聞だけ、ネットで情報を自ら取得しない(しかも、創価はネットを見て信じないように指導してるようだ)。自分でものを考えない。疑問があっても「全て信心で受け止める」のである。末端の会員はこういう人達が圧倒的に多い。これでは創価組織の言う事のみを信じるに決まっている。
これは宗門の一般信徒でも、顕正会の一般会員でも同じ構図である。

組織の打ち出しを鵜呑みにするのでは無く、一人一人が自分で調べて熟慮して納得してから行動を起こすようになる事を望みたい。


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そもそも上行菩薩とは、菩薩でありながら仏なのである。法華経の従地涌出品で地涌の菩薩が登場したとき、身は金色で三十二相を備えており無量の光明あり、と書かれている。これらは仏に備わる特徴である。また、仏である釈尊よりも荘厳だと説かれている。また、天台大師は法華文句で地涌の菩薩を指して「皆是れ古仏なり」と述べている。

法華経ではその後、神力品で釈尊滅後の法華経の流布を付属し託されている。すなわち教主のバトンタッチである。末法に法華経を弘める地涌の菩薩、そのリーダーである上行菩薩こそ仏そのものである。

大聖人もそのような認識をされておられるのが読み取れる「此の大菩薩は彼等にはにるべくもなき・ふりたりげにまします定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを」(開目抄)

御書(否定派は日蓮遺文と呼ぶ)に直接の記述があるとか無いとか、不毛な本仏否定論を繰り返してるのを見ると悲しくなってくる。


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創価学会の2014年の会則変更に関して。気になる点を幾つか挙げてみたい。

弘安2年の大御本尊を『受持しない』と変更した点。今までの歴代会長の発言との矛盾をどう説明するのだろうか。現在までの所、全く答えれていない。本尊とは信仰の根本である、日蓮仏法に於いては受持即観心であるから、それを『受持しない』となれば、仏界を湧現出来ないのに等しい。

もう一点は、日寛教学の見直しも図るらしいが、どこまでを引用して、どこから切り捨てるか明示されていない。

一番の問題点は、それに疑問を抱く学会員が余りにも少なすぎる事である。今まで池田名誉会長や戸田会長や様々な機関誌で教えられた内容と矛盾するのに、それに対して何の反応もせずに素直に受け入れてしまっている点が残念である。自分の信仰の根幹部分が勝手に変更されているのに、それを何とも思わないのだろうか。


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戸田会長の獄中の悟りに関して。以前から、ずっと気になっていた点がある。

なぜ御義口伝などの大聖人の御書の解釈ではなく、法華経でもなく、無量義経からの解脱(悟り)だったのだろうか。牢獄で御書を一から拝していたのではなく、法華経を読んでいたらしいが、なぜなのか。

創価の出版物には、この理由が明快に答えれていないので不明なままなのだ。この獄中の悟りが『仏とは生命なり』という創価教学の原点となるのである。


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池田名誉会長と教学部代表による法華経をテーマにした対談集である。昔から私の愛読書であり、全巻を何度も読み直した。難解な法華経の入門書としては良く出来ている。創価学会員なら、しっかりと全巻通読すべきであろう。創価会員以外でも、宗派に関わらず読んで欲しい良書である。

なお、創価の歴史や池田名誉会長を賞賛し、宗門を批判してる内容は触れないでおく。読み飛ばしても問題ない。

宗門や他宗でも、このような平易な言葉で法華経を語る機会をどんどん広げて行って欲しい。様々な対談を期待したい。法華経が我々の日常から遠いものでは無く、日常そのものであると感じるようになることが重要である。

法華経が、一庶民である我々の為に説かれたもの、という視点が大事なのだ。我々の為の経典なのだ。あの難解な法華経の話は全て我々の己心の話なのだ。「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり。」(総勘文抄)との仰せの通りである。この視点から展開される対談や講義こそ、見る価値のある内容だろう。

教学的には、御義口伝、大石寺の日寛教学がベースである。

ちなみに、私が持っているのは2000年前後の出版である。最近の創価は、過去に出版された書籍を片っ端から改変しているが、まさかこれも現行版は改変されているのだろうか。そうでないことを切に願う。


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仏教史観を語る。1977(昭和52)年1月15日関西戸田記念講堂で行われた、池田会長の講演であるが。 池田会長は、その中で概要として、
・現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしていると言える
・在家の身でありながら供養を受けられる
・創価も出世間の自覚がある
・学会の会館・研修所もまた「近代における寺院」である
という主張をした。

これが創宗問題の発端だと言われているが、確かに、この内容を見れば、僧侶の役割は必要ないように解釈も出来よう。そうなると宗門の価値というのが不必要に思えてくる。このような講演を行うと、宗門の猛烈な反発は予想できそうだが、何故、この時期に、このような講演を行ったのか?

海外の広宣流布を視野に入れての長年温めてきた構想だったのだろうか?あの有名なハワイレポートもそう遠くない時期に報告されたというが。海外布教を考えた時に、在家中心の必要性を強く感じたのだろうか?

創価学会と宗門の争い。同じ大石寺系なのに骨肉の争いを繰り返している。厳密に言えば、これに顕正会や正信会も入って来るが。何故に、これほど激しく争うのだろうか?

今もあるブログ(創価学会員による創価ダメ出しブログ)の中で、大御本尊に関しての言い争いが勃発している。元々は同じ教義解釈なのに、現在、かくも醜い争いを繰り返してる様を見ると本当に悲しくなる。

法華講側のブログを見ていると「ニセ本尊の謗法の創価学会から、正宗に御受戒を受けさせて、正法に目覚めさせ救済することが出来ました」という記事をよく見る。単に内輪で移動してるだけに見える。

創価側は、未だに『日顕宗』などと名前を付けて執拗に批判し続けている。とうの昔に日顕法主から日如法主に変わっているのだ。しかも、宗門の教義のどこにも『日顕宗』の要素は記述されていない。宗門の発行する機関誌の一部を切り取って、それを根拠にしてるのである。

破門騒動以来、こんな不毛な争いを20年以上も続けている。更に今後も延々と争い続けるのかと思うと暗澹たる思いをする。


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