創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

創価学会は、公称会員数827万世帯という日本最大級の宗教組織であるが。その運営は末端会員の重い負担の元に維持されている。
・機関誌である聖教新聞や公明新聞などの多部購読、
・新聞の配達員の負担、
・民音・美術館・書籍の担当者への負担、
・頻繁にある選挙活動による集票マシーン化、
・本部組織が集中する信濃町・大誓堂詣で、
・広布基金の負担、しかも総額も何に使ったのかも非公表。
・関連墓苑の購入負担
・各地に会館が建設される。牙城会や、守る会、王城会、白蓮グループなどがボランティアで担当する
・本部組織と外郭関連団体は肥大化し、その維持だけでも莫大な運営コストがかかるようになった。
それらは末端の会員からの重い負担によって成立しているのである。

選挙になれば手弁当で移動費も自腹。都議選の時期は全国から東京目指して結集するのである。それが功徳につながると信じているのである。

果たして広宣流布に、ここまで巨大な組織は必要なのだろうか?巨大な組織が無いと広宣流布はできないのだろうか。専用職員などいないボランティア運営の組織ではダメなのだろうか?肥大化した組織を再構築してスリム化すべきではないだろうか。

この組織体制、末端会員の重い負担の上に成り立つ巨大な組織、この先もずっと続ける気だろうか?本部職員という『現代の僧侶』、会員の浄財で飯を食べている連中を養い続けなければならないのだろうか?末端の活動家の中には年金暮らしの方も多いだろうに。なけなしの年金を切り崩して、組織維持の為に使われなければならないのか?


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唯授一人血脈相承。大石寺系の奥義ともいうべき教義である。歴代法主の胸中、すなわち内証には、日蓮大聖人と同じ一大事の秘法が受け継がれている、という教義である。宗門では『法体の血脈』と呼ぶ。

これが、どれだけ長い間、信徒を隷属化に置いていたか。大石寺の歴史の中には稚児法主と呼ばれる法主達がいた。その名の通り幼い年齢でありながら法主の座についた者である。この稚児の状態で唯授一人の血脈が相承された、と主張するのである。稚児であれ誰であれ法主の座に就けば大聖人と同じ内証を得られる、すなわち大聖人のように貴い存在として扱われる。これが法主への絶対忠誠につながるのである。宗門で良く見る光景、法主が通ると周囲の信徒が深々と首を垂れたり中には跪く者もいる。これぞ『おすがり信仰』の典型である。

大聖人の仏法の重要箇所が特定の宗教団体の法主に独占されていたのである。『法体の血脈』というものを創り出して、宗門の正当性と法主の無謬性を与えて信徒を隷属させていたのである。

言うまでも無く血脈とは『信心の血脈』である。どこか特定の宗教団体に属していなければ血脈がつながらない、というものでは決してないのだ。血脈とは一人一人の信徒の信心に流れているものである。

私が強く思うのは、今後は二度とこのような『おすがり信仰』になってはならない。その為に、日蓮仏法を学ぶ人が、一人一人が御書を精読し、日々研鑽を進めることである。自らが考え、自ら悩み、そして自らで行動する。このような信仰こそが重要だと強く思う。教学は僧侶に説法して貰うものでは無い、学会の幹部に教えて貰うものでもない。自分で学びとり血肉にしていくものである。
自分と御本尊の間に何者も入れてはならない。御法主上人だの永遠の師匠だの、そんなものを入れてはならない。


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大聖人は身延の地がベストとは思われてなかった。身延は、四方を難所に囲まれて、非常に往来が不便である。また気候も非常に厳しい。冬は極寒のように冷え込む。
此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず 冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、殊に今年は雪深くして人問うことなし(種種御振舞御書)
去年十一月より雪降り積て改年の正月・今に絶る事なし、庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし軒のつららは道場荘厳の瓔珞の玉に似たり、内には雪を米と積む、本より人も来らぬ上・雪深くして道塞がり問う人もなき処なれば現在に八寒地獄の業を身につぐのへり、生きながら仏には成らずして又寒苦鳥と申す鳥にも相似たり、頭は剃る事なければうづらの如し、衣は冰にとぢられて鴦鴛の羽を冰の結べるが如し(秋元御書)

身延に居を構えられた経緯

又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば 山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(報恩抄)
権力者との一定の距離を保つ。刺激させすぎない。
世間的には隠居の体を装う。
各地域の門下への距離が比較的に近い。実用的な範囲内。
門下達と短い日数で指導等のやりとりができる。

理想の戒壇のモデル

迹門の正当な総本山であった比叡山延暦寺。絶頂期の延暦寺を理想の戒壇とされた。それと比べれば身延はベストではないだろう。

現実即応

有力檀徒となった波木井氏の好意があるので、建てようと思えばすぐにでも建てる事は出来たのだが、実際には立派な堂を建てられなかった。三間四面ばかりの草庵で寝食を共に去れた。その修繕も門下達にやらせていたようだ。十間四面という立派な大坊が完成したのは最晩年の入滅される前年であった。このことからも、当初、身延は『仮の拠点』であることを認識されていたと推察する。

幕府の情勢によって柔軟に対応されたのだろう。仮に、平頼綱に代表される強硬派が失脚して、(大聖人に一定の理解がある)穏健派が実権を握ると大聖人の教団に対する締め付けも和らぐ可能性がある。そのような情勢になれば、もっとアクセスが良い景勝の地に本拠を移設することも想定されていたのではないか。

しかし、現実には平頼綱のような御内人が実権を握り続けた。大聖人は、腹の重い病気が続き、衰弱が進み、死期が近いと覚られた。どうやら自分の生きている間には、身延を出て立派な本拠地を構えて大々的な活動が出来そうにもない。そう諦めたのだろう。波木井氏の推薦を受け入れ、身延の地に「坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ」と仰せのような鎌倉の寺院に匹敵するほどの立派な大坊を建てた。これは現実に『妥協』されたのではなかろうか。他の檀徒達からの布施もあった。例えば富木常忍は銭四貫文を供養している。門下達も待ち望んでいた大坊の建設であったのだろう。「銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし」と称賛されている。『一閻浮提第一の法華堂』とまで仰せである。そして完成したこの大坊を、自ら『身延山妙法華院久遠寺』と命名されたという。これらの事から推察するに、ここを『本門の戒壇』の場所として認定されたのだろう。

しかし、そうなると三大秘法抄との整合性はどうなるか。1282年4月の御作である。私の解釈だと、大聖人の理想が込められていると拝する。つまり、現実は身延の大坊が本門の戒壇であるが、いずれ条件が整った時に景勝の地に移設することも考慮されていたのだろう。それが遠い未来だったとしても。

国家の認定が必要

当時、一つの宗として認められる為には国家の認定が必要であった。現代のように信教の自由は保障されていない。幕府と朝廷から認められる必要があった。勅宣並に(関東)御教書を出して貰う必要があった。

大坊が完成した頃は、まだ許可が貰えてなかったと考えるのが自然である。故に、大聖人はその認可を貰うのを念願しておられたのだろう。

三大秘法抄より

未来の門下達の為に、もっとアクセスが良く、景勝の地を『理想の戒壇』と構想されておられたと推察される。そこが理想上の『本門の戒壇』の場所にあたる。

勿論、身延の地も重要な修行の場である。「参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし」(南条殿御返事)と指導されておられる。



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元本部職員の方々である。思想的には池田絶対主義者とでも言うべき人達である。現在の活動までの経緯を丁寧に読んでみた。

確たる証拠が出てこない

彼らの主張している内容は嘘ではないと思うが、証拠の音声テープや映像があれば確実なのだが、それを出せないのは残念である、また彼らの主張に同調する人達も「査問された」「いじめられた」等々、これも同じように証拠が無いのが残念である。なぜ誰一人証拠を出せないのだろうか。不思議である。

創価内部からの情報発信の意義

現在の創価の問題点の認識としては非常に参考になる。

実名と顔を公表してメディアにも何度も出ている点、定期的に各地を転々として座談会を丁寧に行ってる点、動機が純粋な点を考慮して、ある種の期待を込めて応援をしたい気持ちもある。さすがに創価内部からの組織改革実現とまではいかないだろうが、組織内部からの情報発信としての役割を期待している。

カンパ依存には疑問

ただし、ちゃんと各々仕事をして、借金をしないようにすべきだ。『創価改革』の美名を掲げれば、無職でも、カンパ生活しても許される、という考えには全く賛同できない。

「創価改革」のビジョンが不明

そもそも、その掲げている『創価改革』のビジョンが見えない。「池田先生のご了承を取っていない」などを理由に、現執行部の退陣を要求してるが、では退陣後の創価体制はどのように変貌するのか、その具体的な内容が明示されていないのだ。

これでは単に首をすげ替えただけのように見える。現在の創価組織と末端会員の負担に関してどう考えてるのか。聖教などの多部購読、配達員の負担、民音や書籍担当の負担、信濃町詣で、選挙活動屋、このあたりに関しての現状認識と改善策、『創価改革』後の組織体制のビジョンの全容を語って欲しいものである。

人間・池田大作を追及すべき

池田名誉会長には光も影もある。限定された映像や情報だけでは正当な判断は出来ない。光も影も全部を総合して公平な人物評価ができるのである。どうか彼らには『人間・池田大作』を追及して欲しいものだ。池田名誉会長がこれまで行ってきた事の中には、間違いも数多くあるだろう。その現実を受け入れて、根本的な改善の発想を持つことを切に願う。


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宿坊の掲示板に集まる人達について、いわば『池田原理主義者』とでも言うべき人達である。池田名誉会長が絶対的に正しいと信じて疑わない。当該掲示板では、池田名誉会長に関しての批判は一切受け付けられない。そのような投稿をすれば、即座に住民総出で猛反発される。

特に宿坊に常駐する連中は教条主義的な傾向が強い。現執行部が池田名誉会長の意思に反して、間違った方向に運営されているという主張をしている。そして毎日のように現執行部批判が繰り返されている。日々、執行部の揚げ足ばかり投稿してるだけである。

情報の出所も不確かで妄想の類を出ないものが多すぎる。伝聞ばかりで証拠として信用に足りるべきものが一切出てこないのだ。こんな情報を信用しろという方が無理がある。(だが、ごく稀に重要な内部情報が投稿されるケースもあるので完全否定はしないでおく)

都合の悪い投稿は削除

それに対して、自分たちに都合の悪い批判・反論投稿は悉く削除しているのだ。いわば言論統制をやっているのである。批判している対象と同じ類のことをやっているのである。ネットの世界でさえ自由な議論を拒否してる状態なのだ。自分達の主張に同調する人しか認められない。こんな連中が現実を改革など出来るはずもない。何事も成せないだろう。

偶像崇拝と同じ

池田名誉会長には光も影もある。限定された映像や情報では正しい判断ができない。光も影も全部を総合して公平な人物評価ができるのである。綺麗な部分だけを美化して、それを絶対的なものとして固執してるのは偶像崇拝と変わらない。現在の創価の『永遠の師匠』と同じ偶像崇拝である。


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「学会3世の憂うつ」ブログに関して。青蓮氏。創価大学卒業の20代の若き俊英である。
現在は非活となり、既に日蓮仏法を信仰の拠り所とはしていないようだ。教学的な記事もあるが、信仰者として日蓮の教義そのものに執心が無いようなので触れないでおく。学問的好奇心から書いている記事と思われる。キリスト教の絶対他者としての神の概念を好んでいるようである。そして、その絶対者からの運命を受け入れる宿命論者的な思考らしい。

池田思想の申し子

思想は池田哲学の理想主義そのものである。池田哲学の中でも綺麗なエッセンスを凝縮した所が特に好きなのだろう。こちらの方が現在の彼の信仰の対象と言えるのではないだろうか。

某三人組のような池田絶対主義とは違う。現執行部批判もしておらず、創価改革を唱えているわけでもない。

創価大学で池田哲学を基に純粋培養されたら、このようなタイプの人物が育成されるという一つの成果を見てるようである。池田理想主義が過ぎるが故に現実のドロドロとした創価組織での活動に耐えられなくなり非活へと転じたのだろう。

それでも創価に席を置いている理由は、池田名誉会長が作り上げた創価哲学に対する執着が強いのだろう。自ら「池田教と呼ばれても良い」と明言してるほどである。

しかし、自らが告白してるように自分の親をも愛せないとは残念である。代わりに池田名誉会長を父親と慕っているようだが。その名誉会長が常に「お父さんお母さんを大切にしなさい。」と口癖のように言ってたのを聞き流していたのだろうか。

哲学を志す原点

彼が哲学を学ぼうとした原点は、かつてお世話になっていた知己の学会幹部の方の姿にあるという。かなりの高齢で、生涯一途に学会活動と池田名誉会長に尽くしてきた方だった。題目も1日7時間を行うほど強情な信仰心だったとのこと。

その老夫婦が晩年になりアルツハイマーを患った。悲しいことに、家族から見捨てられ、最低ランクの施設に入れられて、そこで粗雑に扱われてしまう。青蓮氏が本人に直接会っても認知できない。 結局その人は、家族から看取られることなく亡くなった。それほど悲惨な状況だったらしい。

その時に青蓮氏は「なぜ御本尊に力があるなら、この信仰を誰よりも貫かれた人が、誰からも見放され、知的能力を失い耄碌させたのだろう」と疑問に思った 。この件があってから、哲学にのめり込む事になったという。

彼は今まで学んだ哲学でその答えを見つけたのだろうか。

人間革命の比較検証

人間革命の改訂前と改訂後の比較は地味な作業ながら素晴らしい。創価は都合が悪くなると改変して隠そうとする傾向があるので、その監査としての意味もある作業である。今後も是非とも続けて欲しい。

過去記事を削除

しかし、過去の記事の大半を削除している姿勢は残念である。己の書いた記事をコッソリと削除するとは何とも悲しい。自分の過去の発言に責任が持てないのだろうか。これが彼の本質そのものであろう。このような人物は、現実に於いても同じような行動をする傾向にある。


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「静かに創価学会を去るために」ブログに関して。創価アンチ系の代表ブログである。管理人はシニフィエ氏。60代らしい。かつては創価バリ活の幹部だったが、覚醒して今はアンチ創価の筆頭になっている。

当該ブログは、投稿数も多く意見交換が非常に活発に見えるが、よく見てみると投稿してる人は退会者の固定のメンバーが数人だけで回してる感じである。中には学会歌のアンチ替え歌を作って披露する輩もいるが、こんなふざけた投稿をして何になるのだろうか。創価をカルト扱いしてるが、これは正確ではない。創価は決してカルトではないのだ。

創価学会に不満があるのならば、創価という組織を批判すれば良いのだが、中には日蓮仏法すら否定してる人が散見される。教学的な事は全く学ばずに思い込みだけで批判してる連中である。

管理人シニフィエ氏の正体

このブログ管理人は「私たちにしてみれば日蓮の言葉など、ただのトンデモ坊主の妄想に過ぎません」と日蓮批判まで行っているのである。浅はかな輩である。

普段から「対話を重視している」と自慢していたシニフィエ氏は、創価バリ活・支部長の『鯛焼き』氏と直接対話の試みを行ったようである。しかし、お互いの主張を言い合うだけで、話は平行線のまま折り合いがつかずに、日数だけが経過していくだけだった。

ここで、嫌気が差したシニフィエ氏の方から対話企画の打ち切りの提案があった。それを受けた鯛焼き氏側は、対話企画打ち切りには承諾したが、スレッドは残して欲しいと要望した。そうしたら、何と、シニフィエ氏は、一方的にそれまでのやりとりスレッドを全削除してしまったのである。

そもそも対話を持ちかけたのはシニフィエ氏側なのに、自分に都合が悪くなるとこのような行為に及ぶとは、何とも呆れ果てる。普段は『創価シャッター』だの『創価脳』だの散々批判を繰り返していたが、いざ自分が追い詰められると、一方的にシャッターを下ろし、対話を拒否し、問答無用でやりとりを全削除するような人格なのである。これがこの輩の正体なのだ。

鯛焼き氏の反撃

スレッドを削除された一件の後、鯛焼き氏は自らのブログを立ち上げた。その中で、シニフィエ氏との対話の経緯を綴っている。鯛焼き氏は自らの正当性を繰り返し主張した。非はシニフィエ氏側にあることを徹底的に訴求した。その反論が功を奏して、現在では当該スレッドを復活処置したようである。

(ただし私は客観的な視点で見て、この対話=議論の内容に関しては、どちらが正しい・どちらが勝った、と断ずるつもりはない。)

鯛焼き氏のブログに乗り込み挑発行為

これでこの一件は収束して沈静化するかと思われた。ところが驚くべき『珍事件』が起こった。何とシニフィエ氏自らが鯛焼き氏のブログに乗り込んで、ハンドルネームを偽装して『世界の山根』という(世間で話題の問題人物の)ネーミングで、投稿をしていたのだ。しかも、関西弁で相手を挑発するような文章で投稿コメントをしていたのである。それを鯛焼き氏に暴露された。慌てたシニフィエ氏は自らのブログ『静かに~』で「もともと自分は『ブラック・シンフェエ』の要素があったから驚くほどの事ではない」と開き直りの弁明をしている始末である。

自ら対話を打ち切って当該スレッドも削除しておきながら、その相手のブログにハンドルネーム偽装して乗り込んで、挑発行為をするとは、何という人間性なのだろうか。これが60代という年輪を重ねた人物の行為とは到底思えない。かつてシニフィエ氏が「鯛焼きさん、あなた単なるネット流民のかまってちゃんですよね」と相手を卑下した発言をしていたが、そっくりそのまま彼自身が『かまってちゃん行為』をしていたのだ。

更なる、なりすまし行為

さらに驚くべき行為が判明した。『世界の山根』の他にも、もう一人分『なりすまし行為』をしていたことを自ら暴露したのだ。 『サバンナ』という元創価の地区部長で、現在は退会した人物、という架空の設定で、なりすましの投稿をしていたのだ。

ネット社会では直接に姿が見えない分、なりすまし等が無いように特に気を配る必要がある。シンフェエ氏は裏でコソコソと複数の偽装工作してるような人間だったのだ。こんな人物を誰が信用するというのだろうか。人間として全く信用ができないのは明白である。

同調圧力

この掲示板は、常連の参加者達によって、同調圧力が強い集団を作り上げている。仮に、創価の良い所を少しでも挙げようものなら、即座に周囲の参加者から猛烈な反発にあう。何でも自由に発言できる雰囲気ではないのだ。

退会イコール幸福という錯覚

では、退会者が幸せになったのだろうか。「今まで行けなかったけど、退会して正月に初詣に行けました」とか「普通の日本人の行事に参加できて幸せ」とか書いてる始末である。正月に神社に初詣に行って、結婚式は教会で神父に祝福して貰い、葬式は仏教の坊さんを呼び、悩み事は占い師に見て貰って人生が左右される、こんなコロコロと気分で宗教を変える『デタラメな日本的宗教観』に成り下がったのに、それが幸せだと主張してるのだ。他にはスピリチュアル系にハマったりしてる人もいる。

どうも退会イコール幸福につながると思い込んでるらしい。 このようにアンチ系というのは思い込みが激しく実態を把握しないまま批判を続けるので性質が悪いのである。今までバリ活だった頃の思い込みが、退会後には全く正反対のバイアスがかかっているのである。

体験談は各個人ブログで

ただし、書き込み内容が全てデタラメとは思わない。中には自分の体験を赤裸々に語っている人もいるだろう。今まで創価でバリ活として頑張ってきて、組織の中で受けた仕打ちなど。選挙活動への指導、仕事と家庭と学会活動への指導、広布基金への強引な指導など。参考になる体験談も数多くある。このような内容はコメント欄の短い文章で終わらすには勿体ない。是非とも各個人のブログとして、もっと詳しく体験をまとめた記事を書いて欲しいと思う。


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日蓮本仏否定派の根拠はこうである。
・大聖人や日興上人に直接本仏と明記された真筆文章が無い。
・弘安2年の大御本尊が、大聖人の出世の本懐である証拠が無い。非常に疑わしい。
大石寺第9世法主・日有師の代になって急に出だした。
・百六箇抄、産湯相承書、本因妙抄は偽書である可能性が高い。
 従って、「久遠元初」「久遠元初自受用報身如来」という教学的概念が否定される。
 (ただし開目抄で『無始の仏界・無始の九界』の明言がある。
   「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」と無始・無終の明言がある)
 (観心本尊抄に「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」
  法華真言勝劣事に「三身相即の無始の古仏」とある)

では、なぜ日有師の代以降に御本仏、大御本尊、唯授一人の血脈相承ということが強調されだしたのか?それは当時の大石寺が非常に困窮しており、興門流は、蓮蔵坊紛争等々によって次々に分裂し弱体化し、代々の稚児法主による指導力の低下。このような状態から、大石寺の正当性を主張し「法主の絶対的権威」の元に興門流をリードしていく狙いがあったからである。
日蓮本仏否定派の主張をまとめると、このような主張である。


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大乗非仏説。大昔からある説であるが、残念なのは日蓮仏法を学んだ人でも、この説を支持する人がいることである。大乗や法華経は、その後の弟子達によって創作されたとの説である。だから「仏教の思想は弟子達によって紡いでいくもの」「弟子達の方が偉い」という解釈をするのだ。

釈尊が長期間尊敬され続ける理由

もし仮に、釈尊が大乗を法華経を説いてないのならば、小乗しか説いていないのならば、釈尊の説いた法は一部の二乗しか成仏が約束されないことになる。女性も成仏が許されない。つまり釈尊はただの差別主義者ということになる。そんな人が死後も長い間にわたって幅広い階層の人々から尊敬され続けるだろうか?

「核の部分」は直説

釈尊の願い、それは人間の救済である。悟ったものは無始無終の仏界(久遠実成)だろう。人間の一瞬の一念に宿る命の性質(一念三千)。諸法実相。地涌の菩薩への付属(菩薩行こそが仏の活動そのものである)。空の概念だけでは部分観であり、空仮中の三諦が円融でなければ実在の人間を捉えることは出来ない。釈尊は、このような「法華経の核の部分」を必ず説いているはずである。

口伝の重み

当時のインドは重要な事は口伝で語り継がれる伝統があった。釈尊の教えと行いが至高であったからこそ、後世まで伝えられたのだろう。法華経の細部の説話などは後の編纂者達が付け加えたのだろうが、だからと言って原点である釈尊の価値は不変であろう。


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機関誌である聖教新聞。創価組織では、購読が入会の時の条件である。聖教新聞の推進こそが広宣流布であると位置付けられている。

「無冠の友」配達員の負担

『無冠の友』と呼ばれる末端の会員の配達員によって毎朝届けられている。定期的に『永遠の師匠』からの激励メッセージで『無冠の友』を称えるのは良いが、冬の雪道や、天候の悪い日、特に地方でバイクや車での配達が必須な地域などは事故の不安が常につきまとう。配達員の負担を考えれば全面的にネット化するか、配達を完全に外部委託に移行するかすべきなのに、未だに改善されていない。

ネットに完全移行できない事情

ネットに完全に移行できない理由は、おそらくは印刷をやめるわけにはいかない為であろう。印刷の業務委託だけでも莫大な費用が発生する。それと広告の問題もあるだろう。しかし『無冠の友』を第一に考えるならば、一刻も早くネット完全移行か外部完全委託に切り替えるべきであろう。大事故が起こってからでは遅いのである。

多部購読の実態

この機関誌である聖教新聞を会員が購読するのは普通なのだが、一家で2部あるいは3部以上購読してる世帯が非常に多いのだ。組織が『マイ聖教運動』と銘打って多部購読を推進しているのである。このようにして会員の重い負担の上に成り立っているのだ。

常識で考えてみたい。一般紙で2部以上購読している家庭など存在するだろうか。有り得ないだろう。だが、これが信仰の世界になると成立してしまうのである。

「世界広布」の実態は不明

一面には、世界のSGIメンバーが活躍してるような記事が連日飾っており、それを読んだ会員は「世界広布が着実に進んでるのだ」と感動するものである。私もかつては同じく海外広布のイメージを漠然と喜んでいたものだ。

しかし実の所は、同じ国・同じ地域を定期的に伝えてるのでは無いために、その地域が本当に発展してるかどうか不明なのである。創価は会員数の実数を公表してないので判断は難しい。むしろ衰退しているという指摘もあるほどだ。


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