創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

産湯相承事という御書に関して。
内容を簡単に説明すると。大聖人の出産に関しての記載がある御書である。大聖人の御母上が出産の前夜に夢を見られたそうである。富士山の頂きに登って、その時に見渡した周囲の景色は、ただの風景ではなく過去・現在・未来を明らかにするようなものであったらしい。そこに梵天・帝釈・四大天王等の諸天善神が集まって、本地は久遠元初の自受用報身如来が、垂迹の姿を顕し、上行菩薩の御身として凡夫の中に誕生される夢を見られたそうである。
この先も、神秘的な展開が続くのだが、この御書を拝読すると、どうも違和感を覚えるのだ。他の御書から共通して読み取れる大聖人の仏法思想と違うものを感じる。どうも神格化させようとする意図を感じるのだが。「日蓮は日本国東夷東条安房国、海辺の旃陀羅が子なり」と『東夷』の漁師の子として生まれたことを堂々と主張された大聖人の言葉と同じとは思えないのだ。また、大聖人の御母上が出産前の時点でここまで明確な仏法用語を理解していたというのも大いに違和感がある。

日興上人への口伝とは到底思えない。これをそのまま大聖人の言葉として受け止めるのは無理がある。後世において、宗門が創作した物語としか思えないのである。(本因妙抄や百六箇抄は内容的には創作では無いと思うが。ただし一部では加筆で創作部分もあると推測する。)

唯授一人血脈相承で法主に無謬性を与え。大御本尊が全ての『御本尊の大本』と説き、そこを本門の戒壇と位置づけ、全ては一大秘法たる本門の本尊に集約されると説く。信徒は、このような教義を無条件に受け入れなきゃならない。この辺が信徒が『おすがり信仰』に陥りやすくなる要員だろう。

大聖人の仏法を信奉する人が、特定の宗教組織によって縛られる構図、これに強い違和感を覚える。大聖人の仏法はそのようなものではない。


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ここ最近は、御書の十大部と呼ばれる重書などを読み直している。読むたびに大聖人のスケールの大きさに感嘆せざるを得ない。

例えば、観心本尊抄に「本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し」「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」と仰せである。本門の釈尊は五百塵点劫より前に仏であり因も果も同時に含まれている。凡夫の我々の己心にも、釈尊と同じ無始無終の無作三身の仏界が湧現すると仰せなのである。ただし、これが「久遠元初の自受用身」という(大石寺系教学)用語につながるかどうかは別とする。

これが大聖人の仏法思想なのである。このように御書から大聖人の仏法思想を一つ一つ学び取ることが重要だと考える。

真筆が現存してない為に偽書説が至る所で湧き上がっている。その対策としては、御書を隅から隅まで命に刻むように読み込むしか無いだろう。そうして大聖人の仏法思想を命に刻み付けるのだ。一人一人が教学を確立する以外にない。そうすれば、偽書と言われる文章に大聖人の仏法思想が込められているか判断することができよう。そのような人達ならば、創価や宗門やその他の教団の教義に妄信するようなことは無いだろう。


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「気楽に語ろう創価学会非活のブログ」の渡辺氏や、想学談林「運ちゃん氏」など、元学会員のバリ活だった人が、日蓮を信仰の対象から外し、我見に陥っている様を見ると哀れでならない。

創価の歴史、宗門の歴史を検証

その原因を考察してみた。今まで創価の教えを絶対的なものとして信じ込んできた。非活になって客観的に考察するようになり、今まで思考停止状態であったことに気付き、反省して全ての固定観念を取り払おうとした。その結果、今まで教え込まされてきた創価の歴史、宗門の歴史の裏が見えてきた。ここまでは必要な事だと思う。

日蓮滅後の弟子達の分裂を調査

そして彼らの調査の矛先は日蓮や弟子達にまで及ぶ。日蓮滅後の弟子達の分裂、日興門流の分裂、唯授一人血脈相承を作り出し法主絶対信仰に誘導したり、真筆がどんどん失われていく一方で偽書説が至る所で出てきた事、そういう歴史を見たからだろう。

日蓮を矮小化してしまう

彼らの現代人的な思考では、雨乞いの祈祷の件や、大地震や自界叛逆難、他国侵逼難といった経文による実証(現証)が、信じられないのだろう。

『人間・日蓮』を探求したのは良いが、その結果、日蓮を哲学者・思想家としての範疇で捉えてしまい、却って矮小化してしまったのである。

弟子達の方が優れているという錯覚

彼らは大乗非仏説を信じている。つまり、釈尊は大乗を説いておらず、後世の弟子達が造ったというスタンスである。つまり「釈尊よりも弟子達の方が偉い」という考えなのである。この思考がそのまま日蓮と六老僧の関係にも適用されている。だから五老僧を平気で擁護するのである。

教えの浅深・正邪に無関心

五老僧の擁護どころか、道元も法華経を用いたからという理由で賛美したり、日蓮すら『法華経至上主義』だと批判したり、ここまで狂ってしまったのである。

もはや彼らに教えの浅深・正邪はどうでも良く、「仏法は弟子達それぞれが各々の解釈で紡いでいくもの」という主張をしているのである。我見もここまで来ると恐ろしくなってくる。

釈尊が遺した言葉『自灯明・法灯明』を都合良く解釈して利用してるが、これは自分勝手な我説を以て信仰の対象とせよ、ということでは決してない。正しい法を根本として、自己を確立し、自分で何が正しいかを見定める事を説いてるのである。

また大聖人も「心の師となるとも心を師とせざれ 」と我見を厳しく戒められておられる。

信心を失う哀れな姿

こんな姿になるならバリ活の頃の方がマシだった。組織の打ち出しのまま妄信していたが『大聖人への信』は純粋だったのだ。取るに足らない中途半端な知識を仕入れたばかりに、一番大事な大聖人への信を失ったのである。これほど悲しいことは無い。


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「SOKA2015」ブログに関して。macska氏。現役壮年部の方である。役職は(元)地区部長。『真・僧俗和合』という理想を掲げて、創価の改革と宗門の改善を望まれている。創価の現在の体質に深く憂慮されている。創価の会則変更の数々に異議を唱えている。

昔の創価の教義を純粋に貫く

macska氏の教学は、純粋な日蓮正宗の教義そのものであると思われる(ただし唯授一人の血脈相承に関しては否定的な見方だろう)。大御本尊への恋慕の信心。一大秘法。日寛教学。大聖人が末法の御本仏であること。人法一箇。久遠元初。久遠元初自受用報身如来。これらは昔の創価を支えてきた教義そのものである。

会則変更に納得できず行動を起こす

一年か二年ほど前に、創価組織に対して、創価の会則変更に関しての疑問とそれに対する回答を要望したようだが、返答は一切無かったようである。

その後も創価の会則変更に異議を唱え続け、改革の志を強く持つが故に、少し前に、地元の座談会で、大御本尊の話題を振ってみたら、空気が凍り付いたようになったそうだ。

創価組織からハブられる

その後、組織から連絡が来なくなったようである。何とも残念な話だが、この経緯が今の創価の実態を顕している。

信仰の根幹はこうあるべき

組織からハブられてしまった今、一人で戦っているのだろうか。記事を見る限り、大御本尊への純粋な信心、そして今も続けている日々の唱題、そこから得られる深い確信が伝わってくる。信仰の根幹とはこのようにあるべきではないだろうか。

あの内村鑑三は、自分のキリスト教信仰上の考えが神学者や接した教会の指導者達に受け入れられず、教会から捨てられた状況になった時に
「ああ、神よ、私は教会を去っても、あなたから去ることはできない。教会に捨てられた不幸は不幸であるけれども、あなたに捨てられなければそれで十分なのだ」
と宣言している。宗教は違うが、人間として、ここに信仰の核心部分があるように感じる。

現状は辛い状況だろうが、いつまでも創価がこのままとは限らないし、近いうちに大きな変化があるかもしれない、諦めずに志を貫いて欲しいものである。

真・僧俗和合

『真・僧俗和合』という考え方は近いものがある。もともと創価も宗門も同じ教義解釈なのだから対立してることがおかしいのだ。共に広宣流布を願っているのである。お互いに組織改善して仲良くやれば良いではないか。

人間・池田大作を追及すべき

ただし、池田名誉会長の捉え方が少し違う。我々は表の部分だけしか、綺麗な部分しか見ていない。『永遠の指導者』という偶像では無く、一人の表も裏もある人間として捉えるべきである。袂を分かった原島嵩氏や福島源次郎氏や石田次男氏などの評価も丁寧に調査し見直す必要があると感じる。そうして総合的に評価し直す必要があるのではないだろうか。


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「気楽に語ろう創価学会非活のブログ」の渡辺氏について、元創価のバリ活の人である。昔バリ活だった頃の想い出が懐かしいのか、しきりに創価の話題を挙げている。創価や仏教の資料系の記事もそれなりにあるので参考にさせて貰ってる面もある。

だが、総じて思うことは、非常に我見が甚だしい。竜樹の中論に随分と御執心らしいが、彼が求めてるのは日蓮仏法なのか、竜樹なのか、天台なのか、真言なのか、それらを良い所取りして自分に都合よくミックスさせたいのか、ほとんどの読者はサッパリ理解できないだろう。

狂った信仰

少なくとも日蓮を信仰の対象としては見ていないようだ。日蓮を否定する記事が数多くある。「日蓮の限界の一つは、極端な法華経至上主義にある」と言ったり「日蓮は、天台の五時八教説から『非合理的な法華経の文』も原理主義的に『真実であると主張した』ことは批判されて然るべきだ」とまで言ったり、もはや法華経が最第一であることすら否定してるのである。かつて日蓮仏法を信仰していた者とは思えないほどの顛倒ぶりである。ここまで堕ちるものであろうか。

「釈尊にも日蓮にも真実は無い、その説かれた内容の再構築が重要である」と我説を主張しているが。要するに斬新な発想で教義の再構築をすれば『何でもあり』なのである。法の正邪、教えの浅深の考慮も一切行わずに、竜樹や世親や天台の教義の端々を切り取り、自分勝手な解釈を入れて混ぜ合わせて、仏法の大海に溺れ迷ってる様を見ると哀れでならない。

真の退転者

私は創価から宗門へ移った人を『退転した』とは思ってない。創価の教義変更に異議を唱え、純粋な教義を求め宗門に移った人達であるからだ。一方、渡辺氏のような人こそ真の『退転者』と言わざるを得ない。

食法餓鬼

彼は一生彷徨い果てるのであろう。学者気取りで様々な文献の端々を拾っては捨てる作業を永遠に繰り返すのであろう。こんな輩は大聖人御在世にも、いつの世にもいる。人を救済せずに文献だけを貪り知識欲だけを満たす。まさに食法餓鬼そのものである。

生命の次元で見れば

大聖人の仏法への確信が無ければ何の意味があろうか。以信代慧である。仏法はまず信から入らねばならない。こんな姿になるぐらいなら、昔のバリ活だった頃の方が生命は純粋だった分、遥かにマシであったろうに。組織に妄信になってる状態は悲しいが、そこから目覚めたのは良いが、彼のように堕ちるところまで堕ちるのはもっと悪い。もっと悲しい。哀れ過ぎて見ていられないのである。

生命の次元で捉えるならば、創価の活動家や、法華講で頑張ってる人達の方が純粋な信心であるが故に遥かに貴いのだ。十界でいうと菩薩の生命である。創価の婦人部や法華講の婦人部はパワフルで生き生きとしてるではないか。(教学力は全然無くても)

今の堕ちに堕ちた彼の言葉など、創価や宗門やその他の日蓮仏法を信奉する人達から見れば、単なる戯論以外何物でもないのである。そんな言葉など誰も受け入れないだろう。くだらない戯論を捨てて日蓮仏法に純粋に立ち戻ることを切に願うばかりである。


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創価は2014年に大きな会則変更を行い、大石寺の大御本尊を受持の対象から外し、他にも御祈念文の変更等々を行ってきた。この先、創価の教義変更はどこまで進めるつもりなのか?創価大学の宮田教授を本部教学室アドバイザーに迎えているが、現状を見る限り、彼のアドバイス通りに進んでるように見える。

宮田氏は、大聖人が末法の本仏であることを否定し、上行菩薩として認識している。大御本尊が日蓮真筆であることを否定している。

宮田氏の論文を読むと、彼の見解では、釈迦本尊も許容されるらしいが、その根拠は、日蓮遺文には釈迦像を用いることを咎める箇所がないからだそうだ。(さすがに創価の教義変更が一気にここまで進むとは思わないが)。

宮田氏は、御義口伝や御講聞書を後世の偽作として全面的に排除する見解みたいだが、将来はこのような教義変更になるのだろうか。(有名な「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」も御義口伝の一節である)

久遠元初、久遠元初の自受用報身如来、この教学的な概念はどうなるのだろうか?創価の現時点の教義では『永遠の仏』と解釈されている。これは久遠元初なのか、違うのかハッキリしない。

『人法一箇』はどうなるのか。大聖人を人本尊として認識するのか否か。(御義口伝に、「人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」、とある)

日寛教学を、ある部分は用い、ある部分は捨てるそうだが、その切り分けの境界線も明示されていない。(創価にとって都合の良い部分だけを利用するつもりだろうが。)

今こそ創価の会員の方々は、自分達の『信仰の核心部分』に対して変更が行われようとしてる事を認識し、御書の研鑽に邁進し、これらの核心部分に対する確固たる教学を打ち立てて欲しいと切に願う。

このテーマは非常に重要であるので、私も思索を続けながら随時更新していきたい。


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想学談林「運ちゃん氏」のブログに関して。元バリ活の人である。

創価系の記事が多い。非動になった今でも創価の記事が多いのは、自身の半生を懸けた信仰体験の総括の意味もあるだろう。

或いは、奥さんが創価バリ活だからという影響も強くあるだろう。創価組織の打ち出しを『無疑曰信の
信心』で受け止めて活動している姿を、いつも近くで見ていて思うところが多いのだろう。

バリ活の頃は総県の青年部幹部まで昇りつめ、創価本部職員との折衝も数多く経験したらしい。また、
広宣部にも在籍し裏の活動にも務めていたという。その経験から。創価の組織の問題点を詳細に分析している記事が多いが、この中には共感できる記事も多い。

他に、創価の歴史や宗門の歴史など丁寧に資料を調べて整理しているが、これも参考になる。その他に、臨死体験の記事もちょくちょく書いてるが、これは一般的に知られている知識の範疇を出ないので余り参考にならない。

ただ一点気になるのが、バリ活だった頃に比べて、宗教の正邪・浅深を評価しなくなった点である。その最たるものが五老僧の擁護である。これは別記事に書いた通り。

バリ活から非活になる経緯で、思想の整理が行われたと推察するが、その過程で、今まで妄信していた創価や宗門の歴史を調べたりする中で、『人間日蓮』を追及するあまり、逆に思想家・哲学者としての日蓮しか見えなくなったのだろう。残念な事である。



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想学談林「運ちゃん氏」のブログの紹介記事を書いたが、彼の記事でいつも気になっているポイントがある。

日蓮を呼び捨てに、弟子達に師を付ける

それは、日蓮を呼び捨てにして、弟子達に「師」と敬称を付け「日昭師」などと呼んでいる有様である。まるで弟子の方が偉いと言わんばかりである。

五老僧の邪義を擁護

五老僧の邪義を擁護する姿勢は根本的に間違っている。五老僧は天台沙門と名乗ったり、仮名交じりのお手紙を、すき返したり、本迹一致と主張したり、師匠の心を踏みにじっている。日蓮大聖人は「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と仰せである。どこまでも教義に厳格であられた。五老僧の行いを大聖人は深く悲しんでおられるだろう。

その五老僧を擁護する「運ちゃん氏」の姿勢は全くおかしなモノだ。彼の言い分を要約すると「弟子達が各々勝手な解釈をして己義を構えても全然OKだよ」と主張しているのである。

世界一、法の正邪に厳格

大聖人は「南無妙法蓮華経の良薬をば彼れ等が口には入るべき」と薬に譬えられた。間違った薬を飲んで不幸に陥り苦しんでいる衆生を救う為に人生をかけて闘争されたのだ。運ちゃん氏は、その点は一切スルーして自分の都合の良い部分だけを切り取ってるのである。

もしも大聖人が「釈尊の弟子達が、それぞれ勝手な解釈しても全然OKである。真言も念仏も禅も、それぞれに良さがあるね」などと仰る事があっただろうか?そんな事は有り得ない。大聖人は、世界一、法の正邪に厳格であられた方である。立宗宣言から御遷化まで邪義を徹底的に破折された御精神を片時たりとも忘れてはならない。

禅宗にも心惹かれる

もっとも運ちゃん氏は、五老僧の邪義を擁護する事などまだ軽いぐらいで、あろうことか禅宗にも心惹かれているようで、「『拈華微笑、以心伝心、見性成仏』という禅宗の考え方にも一日の長がある」などと言い放っている。

もはや彼に宗教の正邪・教えの浅深など全く関心が無いように見える。この調子でいくと、そのうち真言や念仏をも讃嘆しそうな気配である。(既に、法然のインスピレーションに一目置いてる事をつぶやいてる)

己の命と引き換えに日蓮仏法を守る

大聖人を念仏の暴徒達から己の命と引き換えに守った工藤吉隆や鏡忍房日暁。主人から大聖人の仏法を捨てるか地位を捨てるかの選択を迫られても、捨てなかった四条金吾や池上兄弟達。熱原の法難で首を刎ねられても大聖人の仏法を捨てなかった信徒達。彼の姿勢はこのような先人達の生き方を侮辱してるのである。

もっとも彼なら平気で「禅も経文以外からの素晴らしい教えもあるだろうし、仏教それぞれの宗派に良さがある。どれが優れてるとか劣ってるとか、そんなことで命を懸けるのはナンセンスだ」と言い出しそうである。

ただの資料好きに成り下がる

もはや単なる資料が大好きな仏教学者の走りと何ら変わらない。こんな姿になるぐらいなら、彼の奥さんの『無疑日信の信心』の方が生命の次元で見れば遥かに貴いと言える。自分の活動が人を救うと信じて日々頑張ってるのだから。利他の菩薩の生命である。彼は残りの生涯を文献を読み漁り我見に溺れる日々で終わるのだろうか。悲しいことである。


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願兼於業と宿業に関して。昔から、思う所があった。今回、整理してみる。

三世の善業・悪業こそ公平

自分は仏教で説かれる業の概念は正確で公平なものであると確信している。この業の因果律が無ければ、『何をやってもあり』になってしまうからだ。善業・悪業を否定すると、その人生で何をしてもやった者勝ちになってしまう。どれだけ悪いことしても、それが表にバレなければ勝ち。他人を騙しても搾取しても明らかにならなければ勝利。裏で悪いことをして、人を蹴落としたり、或いは殺しても表に出なければ勝利。人類の歴史上、そんな事は無数にあるだろう。そのような行いをしてきた人々が死後、自分の積んだ悪業によって苦しまなければ、公平とは言えない。善業も全く同じである。誰が見てなくても評価しなくても業が必ず善果にならなければ公平とは言えない。同生天・同名天として説かれるのが仏法の公平性であろう。

願兼於業の解釈

一方、願兼於業の解釈が難しくて悩む所がある。本来は悪業は無いのだが、妙法の偉大な功力を証明する為に願って業を兼ねて生れてくる。と説かれる。

少し思索を進めてみると、過去世に悪業を積み重ねた人(いわば純粋な悪業)と、願兼於業の人(願って業を兼ねた人)との区別がつかなくなるのではないだろうか?例えば、重い病気の人が「自分のこの病気は悪業が原因なのだろうか?それとも願兼於業なのだろうか?」と考えた。一方は大悪人で悪業を積んだ過去世であり、一方は善業で何不自由ないのに、あえて願って業を兼ねて生れて来た。つまり天地ほど過去世が違ってくるのである。

仮に、過去世が大悪人で悪業を積んだのであれば、大聖人の仏法により転重軽受できるチャンスがある。(宿命転換という用語は御書に無いので触れないでおく)

しかし、一方で、例えば大病した人が頑張ってる姿は感動を与えるものである。仏法の力で乗り越えた姿は説得力があり、人の心を打つものがある。これも否定はできない。


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日蓮仏法を信奉する、日本でも有数の巨大な寺院組織である。

何といっても活動の目玉は支部総登山である。支部の住職を筆頭に所属する法華講が参加する支部総出の団体登山ツアーである。「本門戒壇の大御本尊様と御法主上人猊下がいらっしゃる最も清浄な場所」らしい。登山することは、過去からの罪障を消し徳を積んで幸せになれる修行だと主張する。そして唯授一人血脈相承の御法主上人から有難いお話を聞けるのである。
宗門側は、南条殿御返事の「参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし」という御書の文言を根拠に総登山の重要性を主張しているが、大聖人御在世の場所は身延の事であり、南条などの有力な檀徒は直接大聖人に合って指導を受ける立場であった為に身延に行く意味があったのである(また、来臨という言葉を門下に対して使われるのも違和感があるが)。
一般の法華講員は総登山に何度も参加して頑張らねばならない為に負担が大きい。「当支部は誓願達成まで、あと〇〇%です」とノルマが厳しいのである。

巨大な僧侶組織を維持するだけで負担が大きい。登山費用に、各種御供養(塔婆代や、永代回向料、過去帳冥加料、納骨冥加料)に、日蓮仏法の信仰を深める為に、こんなものが必要とされているのである。ただ僧侶を養ってるだけの制度である。

登山に、御供養に、僧侶の御説法、こんなものが果たして広宣流布に必須なのであろうか?こんな環境だと『僧侶が上、信徒が下』に陥りやすいのは当然だろう。


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