創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

他記事のコメント欄にて『気楽に~』の渡辺氏の情報を頂いた。





(追記:当該動画は12月13日頃に削除された模様)

早速見てみたが、感想は・・・絶句である。

このやりとりの中で、彼の人間性の本質が全て出ている。

特に動画の21分あたりを見てみると、まるでキャバクラでの客とキャバ嬢の会話が展開されている。よくもまぁこのような品の無い会話が出来るものだ。しかも自分から卑猥な発言をして相手の女性を下ネタに誘導しているのである。(具体的な発言内容を書くのは、余りにも卑猥過ぎる為に控える。直接動画を閲覧して頂きたい)誰がどう見ても、下心丸出しのスケベなオッサンそのものだ。このような下ネタ満載の会話で、はしゃいで興奮している渡辺氏には心底軽蔑する。

彼は常に、創価バリ活や法華講員の人達に対して「屹立した信仰者たれ!」と『覚醒』を呼びかけていた。これが彼が説く『屹立した信仰者』の振る舞いなのだろうか。なんと御立派な姿なのだろうか。

何の為に宗教があり、信仰をするのか。その目的の一つは、人間性を磨くことである。

彼の過去の言動をまとめてみると、創価ネタで散々遊んだり、伊勢神宮に参詣したり、挙句の果てには、女性に対して下心丸出しの卑猥な発言を連発しているのだ。日頃から仏教に関して御自慢の『我見解釈』を披露しているが、仏教から一体何を学びとったというのだろうか、そもそも何の為に仏教を学んでいるのだろうか。単なる知識欲を満たす為としか考えられない。


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(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

先日、沖縄県知事選挙が実施された。数人の立候補者がいたが、自民・公明が推薦する佐喜真候補と、オール沖縄として推薦する玉城デニー候補との一騎打ちであった。この佐喜真候補とは日本会議のメンバーであったとされる。辺野古移設に関しては明確に反対せず、実質的に容認の立場であった。

公明党は前回の名護市長選挙に続いて、またもや自民推薦候補を推薦する戦略に出た。

沖縄のことは言うまでも無く沖縄県民が決めることだ。本土が押し付けるべきではない。その結果を尊重すべきだろう。

一歩踏み込んで考えてみたい。沖縄県民の多数が「米軍基地は必要ない」と結論を出したならば、それがない状態での防衛体制を構築すべきだろう。その場合、自衛隊の大幅増強・再配備も必要になって来るだろう。防衛費の負担も増えることになる。しかし、それをいつまでも誤魔化し続けるのは卑怯ではないか。自分の国を自分達で守るという事を真剣に考える時に来ている。

組織あげての大量動員

今回の沖縄県知事選挙では創価組織が大量の動員をかけたという。 
公明の支持母体である創価学会は県内に数千人規模とされる大勢の人員を投入。選挙期間中3度沖縄入りした小泉進次郎氏の街頭演説会のうち2回で支持者を大勢動員した。県外からも電話作戦で佐喜真氏への投票を促すなど総力戦を展開した。
(記事ソース)
前回の知事選では公明党は”自主投票”でしたが今回は新基地賛成の候補を全国動員で応援している。我が家にも関西から幹部がきて、”オール沖縄は共産党。デニーでは経済発展ができない”とデマ宣伝を繰り返している。
(記事ソース)

実質的には、辺野古に新基地建設を容認している佐喜真候補を推薦し、組織あげて大量動員して応援する。創価・公明党がやっていることは押し付け以外なにものでもない。

動員された会員は沖縄に乗り込み、佐喜真候補へのお願いに回ったり、候補者の演説が盛況のように見せる数合わせの為に聴衆に加わる。それが池田名誉会長への報恩感謝に直結するとばかりに頑張るのだ。彼等は沖縄県民がどれほど米軍基地に苦しめられてきたか、基地の無い状態を願っているのか、その気持ちなど考えもしない。組織の言う通り何も考えずに動くだけだ。そしてこんなものを法戦と称し日蓮仏法の実践法だと主張する創価組織のやり方には心底呆れる。

今回、玉城デニー候補の陣営で創価会員の三色旗が目立ったが、あの方々の気持ちもわかる。沖縄県民の心を踏みにじる行為を許せなかったのだろう。たとえ組織に睨まれようが移設反対の意志を示さねばならないという止むに止まれぬ行動だったのだろう。


(以降、時間をかけて記事を書き上げていく予定、まだまだ一部)



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現世のみに限定すれば、生命は公平とは言えないだろう。

生まれながらに重い病を抱え、長く生きることが出来ずに死んでいく赤ちゃんが存在するのだ。この現実を避けては通れない。

例えば、先天性の重度の心疾患を抱えて生れてくる場合など。現代の医学では助けようが無い。助かる可能性はゼロである。

この赤ちゃんは生まれてすぐに死亡してしまったのだ。一方で病気一つせずにすくすくと育っている大勢の赤ちゃんがいる。現世のみで見れば、こんな不公平なことはないだろう。

これをイプシロン氏のような無神論者は「運が悪かった」で済ますつもりだろうが、そんな詭弁は最早通用しない。

生命が公平である為には。やはり三世の生命というものが確かに存在する。そのことを避けては通れないだろう。



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大聖人の御遊学に関して考察を続けている。

まずは御遊学を経済的・社会的に支えていたのは何であったのだろうか。第一に考えられるのが清澄寺であろう。当時の清澄寺は北条家の庇護下にあり、経済的にも裕福であった。遊学の費用をバックアップする余裕もあっただろう。清澄寺としても、優れた学僧を排出し保持することは寺院の箔をつける意味でも重要であっただろう。

次に領家の尼という存在。御書を拝すると領家の尼に対する記述がみられる。様々な支援をしていたと推察できる。


・16歳から立宗宣言の32歳までの間、御遊学の期間が16年という長い間であるが、

鎌倉遊学後には『戒体即身成仏義』を著述されている。21歳の時点での著述とされている。この中で、法然の浄土宗・念仏は無間地獄であると明確に破折されている。だが、清澄寺が天台密教が主流であった為か、慈覚・智証の法華・真言『理同事勝』の教学を受け継ぎ、第四段の真言の密教戒を最高位として位置付けられている。

この後、比叡山を始め各所に御遊学されることにより、『理同事勝』は誤りであり、法華経が最勝であることを覚られたと思われる。なお、30歳で京都にて、『五輪九字明秘密義釈』を書写されているが、これは東密の内容であり、(いずれ来るであろう台密・東密に対する破折)比較検討用の御研鑽の為に書写されたと思われる。

また、大聖人は非常に裁判に精通されていた。領家の尼に対する力添え。訴訟事務に関してのエキスパートであるはずの富木常忍に指示するほどの知識を持たれていた。京畿の御遊学中に御成敗式目・裁判資料などの御研鑽を深められたと考えられる。

大聖人は比叡山にて、学頭南光坊俊範に師事され12年間の修行をされた。この御遊学の中で、比叡山延暦寺を『理想の戒壇のモデル』であり『理想の修行の場』との認識を強く持たれたのだろう。

32歳の立宗宣言までには、法華経の為に不惜身命の覚悟を決められたと推察される。「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに」内面の精神の格闘は壮絶なものであっただろう。



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創価は毎年の行事に必ず『財務』という寄付を募る。寄付を行う会員を『広布部員』と命名している。この財務こそ創価の巨大な力の源泉である。

表向きは「広布基金は真心なので自由です」といいながら、年後半になってくると財務を推進する打ち出しがある。広布部員の会合もある。役職を持つ活動家はこれを推進せねばならない。

「財務をやりきれば福運がつく」だの、「自分の境涯の限界まで財務を頑張りましょう」。貯蓄の余裕すらなくなっても。「足りないときに宇宙銀行から自在に引き出せる境涯になります」などという指導もあるようだ。しかし、その根拠はどこにあるのだろう。そんな曖昧なものをアテにして生活していけというのだろうか。


「御聖訓に学ぶ御供養の精神」という記事に次のように記載されている。
法華経の行者に供養する功徳は、妙法を弘める人の功徳に等しく、広宣流布が拡大すればするほど、計り知れないほどの多くの功徳が、供養をした人に集まってくるのです。
ここで、「法華経の題目を弘められている人」とは、今日においては、現実の上で大聖人の御遺命である広宣流布を進めている創価学会をおいて、ほかにはありません。
(聖教新聞 2018年11月6日)
御書から『ご供養の精神』を強調して、財務の正当性をアピールしている。しかし当時の檀徒達は大聖人に対して真心の供養をしたのである。教団に対する布施ではない。一方、財務はあくまで創価という組織に対する寄付である。「法華経の行者に対する供養」を「教団への寄付」に勝手にすり替えているのである。そこに日蓮仏法の裏付けなど微塵もない。



そもそも、この財務は戸田会長の時に開始された。財務に参加できる会員も限定されていた。信心強固として認められ金銭的に余裕のある人のみが財務部員になれた。いわば特別な扱いであったのだ。

池田名誉会長はかつてこのような発言をしている
邪教などは、みんなうまい事を言って、金を巻き上げ、教祖のために、教団の勢力のために、それも本当に人々を救えるならば許せるけれども、全部が地獄に落ち、民衆が教祖にだまされ、そして教祖は立派な家ばかりつくり、民衆は最後には乞食みたいになってしまう。これが、邪宗教の姿です。創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません。
(聖教新聞 1962年(昭和37年)6月16日)
この方針を貫いていれば、財務というイベントは残っていないはずだ。ところが、今や毎年恒例の行事になっているではないか。


原点である法華経を拝すると

創価の財務は、法華経に説かれている内容を正しく継承しているのだろうか。原点である法華経の精神を確認したい。
 阿逸多、若し我が滅後に、是の経典を聞いて能く受持し、若しは自ら書き若しは人をして書かしむることあらんは、則ち為れ僧坊を起立し赤栴檀を以て諸の殿堂を作ること三十有二、高さ八多羅樹、高広厳好にして、百千の比丘其の中に於て止み、園林・浴池・経行・禅窟・衣服・飲食・牀褥・湯薬・一切の楽具其の中に充満せん。是の如き僧坊・堂閣若干百千万億にして其の数無量なる、此れを以て現前に我及び比丘僧に供養するなり。是の故に我説く、如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人の為に説き、若しは自らも書き若しは人をしても書かしめ、経巻を供養することあらんは、復塔寺を起て及び僧坊を造り衆僧を供養することを須いず。
このように法華経では、自行化他に励む人には、遺骨を納める塔(ストゥパ)を建てたり、僧坊を作ったり、僧団への供養をしたりする必要はないと明確に説かれている。その理由は、この行者が法華経を受持・読誦するならば、すでに塔を起て僧坊を造立しサンガを供養したことになるからであると述べられている。法華経の信仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必要としない。

これが法華経の精神なのである。創価が、毎年の財務を「これに勝る大善はない」などと『信仰の柱』のように指導しているのが大きな誤りであることが明白である。

教団への布施に執着する様を見ていると、法華経の精神よりも小乗仏教の教団運営の姿勢を継承しているのではないだろうか。


真心が大事だと言うのならば

広布部員などと命名する必要すらない。組織をあげて大々的にやる必要などない。ボランティア的なスタイルで自主性に任せれば良いのだ。組織(教団)に対して寄付をしても良いと思う人だけが自発的にやればいい。




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以前の記事にも書いたが、昔からユゴーが大好きだった。あの力強く荒々しい言葉が大好きだった。他の作家にはない剛毅で直截的な表現が気に入っていた。

ユゴーは、多くの小説だけではなく多くの詩集も残している。その中で、万物について語っている箇所がある。彼の万物感、仏法で言うところの諸法実相であろう。

知るがいい、万物は自分の掟や、目的や、たどるべき道を心得ていることを、
星から虫けらに至るまで、広大無辺な宇宙は、お互いの言葉に耳を傾けていることを、
宇宙の万物はそれぞれ自分の心を持っていることを。
そして人間の耳には、そうした万物の生き方が手に取るように掴めるのだ。

なにしろ、事物と生物とは盛んに言葉を交わし合っているのだから。
万物が話をする、吹きすぎる風も、水面を進むアルキュオンも、
草の芽も、花も、種も、土も、水もが、
お前は今まで考えていたのか、宇宙がこういうものでは無いのだと?

いや、万物は声をあげ、香りを放っているのだ。
万物は話しかけている、無限の中で、何者かに何かを。
ある考えが込められているのだ、森羅万象のあげる壮大なざわめきには。
神は創ったざわめきに、すべて「言葉」を交えたのだ。

万物はうめく、お前のように、万物はうたう、私のように。
万物は話をしているのだ。そして、人間よ、おまえは知っているか?
なぜ万物が話すのかを。よく聞け。風、波、炎、
木々、葦、巌、こうしたものすべてが生ある存在だからだ!

万物は魂に満ちているのだ。

だが、どのようにして?ああ!これこそ前代未聞の神秘。

ユゴーの考えによれば、万物は鉱物にいたるまで、それぞれ固有の魂を宿し持っている。

万物はその崇高さに応じて梯子のような階段を形作る。こうした万物の梯子は、闇の底から出て途切れることなく人間にまで、そして更には神の元にまで昇っていく。という垂直的な世界観を持っていた。

この世で最初の過ちが犯された時、その過ちは重さになり、それをきっかけに万物は落下を始めた。悪とはすなわち重さなのである。万物はその重さ、つまり悪の度合いに応じて空間の中に位置づけられ、闇に身をにひたした鉱物から出て、光に包まれた天上の神にまで昇っていく『存在の梯子』を形成するのである。
霊気は空気になり、空気は風になった
天使は精霊になり、精霊は人間になった
魂は落ちていった、宇宙の悪の数を増しながら
禽獣の中へ、樹木の中へ、さらにくだって
あの醜くて目の見えない、考える小石の中へまでも
このように、天使・精霊・人間・禽獣・樹木・小石へと悪の度合いを増しながら変化していく

ユゴーの万物感・宇宙観には、このようなグノーシス主義的な反宇宙的二元論が垣間見える。

そして生命は、上へ上へ、光の方へ昇っていくという真理が謳われている
いや、この生命はひるまず、見事に昇り続けて
目に見えぬ世界へ、そして重さを持たぬ世界へ入っていき
卑しい肉体をもったお前の目には見えなくなり、青空を満たすのだ
あの生命は、誰も到達したことのない空を横切って、あの世界へ入っていく
星をちりばめた梯子を、崇高な姿を見せながら昇り
物質という鎖につながれた悪魔達から、翼を持った魂の所まで行きつくのだ
そしてその生命は、卑しい存在の暗い額を崇高な存在の足の指に触れさせ
精霊である星を大天使である太陽に結び付け
広大無辺な空間を経巡りしながら
星座の群と青空の群をつなぎあわせる
そして、上に下に、周辺に中央に、被造物を満たして
ついには奥深い天空の高み、神の中に消えうせる!

しかし、大詩人の宇宙創造の概念は極めて難解で一言では説明できない。創造時に重さを持たなかったという意味は、いわゆる原罪のことを示唆しているのだろうか。梯子の上層ほど光の量が多くなり物質の量が減っていくことの意味とは、神に近づくことだろうか。安直な解釈はせずに何度も詠唱し考察を続けていきたい。



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広宣流布とはどのような状態を指すのだろうか。

創価は組織が拡大することが広宣流布だと主張しているが、
果たして、創価の会員数が増えることが広宣流布となるのだろうか。
池田名誉会長に名誉称号が授与され、その数が増えることが広宣流布につながるのだろうか。

現在の活動内容を考えてみる。
・純粋な教学にかける時間は1割以下
・人間革命を常に携帯し研鑽する、まるで現代の御書のように扱う
美化された創価の歴史を幾ら学んでも、それが何になるというのだろうか。そんな事に時間をかけるより、御書の拝読に全時間を使うべきだろう。
・各種の会合(会合の為の会合、事務連絡が大半、打ち出し目標の徹底)
・選挙支援活動や、新聞推進(集金)、書籍推進、チケット推進
創価の活動家は、聖教新聞の啓蒙・購読の拡大が広宣流布につながると主張している。だが、それは創価組織を美化してアピールしているだけで、それが日蓮仏法の伝道に直結しているかは疑問である。書籍も各種チケットも同様である。

いくら組織が拡大しようと、純粋な日蓮仏法の要素が薄いのでは価値がない。創価という組織が、日蓮仏法の実践行動としてふさわしくない打ち出しばかり出すようだと、逆に信仰の妨げになってしまう。

いくら会員数を増やしても、『永遠の師匠』に対する師弟不二。組織に対する忠誠心。そんなものを植え付けられても意味が無い。

いくら入会して会員が増えようとも、日蓮仏法への信を深め、教学を研鑽し、日々の生活の根本に置かなければ意味が無い。入会は単なるきっかけに過ぎない。創価の会員が増えることがイコール広宣流布では無い。

真の広宣流布とは、日蓮仏法を根幹として日々の生活に活用する事ではなかろうか。日々、日蓮仏法への信仰心を深めていく。身近な人に語り伝えていく事であろう。


創価を退会した人が、日蓮仏法すら捨ててしまう原因には、創価の指導に原因があるのではなかろうか。組織の打ち出しに服従することばかり教え込んで、追い詰めてしまったので、日蓮仏法に対する誤解を与えたのだろう。

STBや販促ビデオ等々でしきりに美化アピールをしているが、





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時々ニュースで子供の虐待の事件が報じられることがある。平和なこの日本でも、子供の虐待が潜在的に存在していることを実感させる。

虐待の具体例

例えば、小さな女の子が、両親によって日常的に虐待されているケースを考えてみたい。

児童相談所も軽視して見逃してしまう。近所の人も気付いてくれない。誰も助けてくれない。

次第に両親の虐待はエスカレートし、暴行の度合いも激しくなる。殴る蹴る、常に体にアザが残る。肉体的な暴力だけではなく言葉の暴力も加わる。「おまえなんて生きていてもしょうがない子なのよ!」と存在すら否定する。小さな女の子にとってどれほどのショックを受けただろうか。どれほど深い絶望に陥ったのだろうか。この子は自分が悪いと思い込みノートに反省文を書く「もっと良い子になるから、お願い許して」と・・・。

食事も制限され、一日一食、いや与えられない日すら出てくる。体重は激減し、見るからに痩せていく。やがて、もう食事もとれない程衰弱してしまう。そしてついに暴行に耐えられずに、ぐったりした姿になり倒れてしまう。そこで慌てて病院に緊急搬送するが、手遅れで助からず死んでしまう。

何の罪も無い天使のような子供が、このような残虐な目に遭う。

生命が今世限りならば

もしも生命が今世限りならば、一体この子の人生とは何だったのだ?

家庭での温かい触れ合いの記憶もなく、友達と楽しく遊んだ思い出も作れず、恋も、青春も謳歌できず、社会に出て自分の能力も活かせず、この世において何も為せず、ただ虐待されるだけの地獄のような日々。それに怯えるだけの日々を送る。両親からの度重なる暴行は極限までエスカレートし、ある日突然に人生を強制終了させられたのだ。

この子は、頑張って自力で現状を打開することは不可能だったのだ。(避けられぬ不幸・避けられぬ死)

これをイプシロン氏のような無神論者は、ただ単に「可哀想だが、運が悪かった」で済ますのだろうか。彼等は都合の悪いことは一切答えない。普段から偉そうに講釈を並べているが、彼等の主張などいざという時には何の価値もないのは明白である。

生きている間は地獄の日々ばかりで、そして、この子の死後は無になるとでも言うのだろうか。その一方で、裕福な家に生まれ、何不自由なく恵まれた環境で、愛情をたっぷりと注がれて育てられている子供がいる。その子との違いを「単なる運」で済ますのだろうか。それでは余りにも不公平すぎるだろう。

仏法の眼から見れば

仏法の眼から見れば、この女の子は、過去世に因となる悪業を犯した。それが今世に果となり現れた。この子の悪業は精算され、次に生まれたら、そのような酷い目に遭わされることが無く、幸せな子供時代を送ることが出来るようになる。そう捉えるのが一番公平ではないだろうか。


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随分と前から法華経の安楽行品に関して思索を続けている。この安楽行品の解釈、或いはこの品自体に関しての疑問がどうしても解決しないのである。様々な角度から検証しているが、考えがまとまらず自分の中で消化しきれていない。

安楽行品の概要

安楽行品の内容は、この章の冒頭で、文殊師利菩薩が釈尊に対して「世尊滅後の悪世に於いて、菩薩達はこの法門をどのようにして説き明かすべきでしょうか」との問いを発する。それに対しての釈尊の回答が、『四つの在り方(四法)』いわゆる身・口・意・誓願の『四安楽行』と呼ばれる修行法である。当品はこの四安楽行を中心に説かれている。

身安楽行の「適切な交際範囲」とは

第一の法(『身安楽行』)が説かれている内容で、これには『行処』という菩薩が善い行いをする為にどのように振る舞うべきかという具体的な訓戒が説かれている部分と、もう一つは『親近処』という菩薩にとっての適切な交際範囲が説かれている。

この親近処について、対象として(社会で蔑まれている)旃陀羅、豚肉を売るもの、鶏肉を売るもの、猟師、屠殺者、役者と舞踊家、棒術家、力士達に近づくべきではない、親しくなるべきではない、と説かれている。このように、わざわざ個別の職業とカーストの身分層を指定して避けるように警告しているのだ。

ここで「近づいて親しくなってはいけない」というのは「一切相手にするな」ということではなく、自分から個人的に近づいてはならない、という意味合いのようだ。教えを説くなとは言っておらず、誰でも法を求めてやってくる人には、分け隔てなく教えを説きなさい。というのが法華経の精神である。

そうであっても、法華経の経典に、わざわざ個別の職業とカーストの身分層を指定して記述することには強い違和感を覚える。経典にこのような記述があれば、誰も近づこうとしないだろう。避けるようになるのが自然だろう。

法華経は一切衆生に仏性を認めており、本来そこには人種や職業やカーストによる差別などないはずだ。社会に於いて一番下層で蔑まれている人でも、ブッダになれると説かれている。しかしながら、上記の旃陀羅や個別の職業に関する記述がある事によって、法華経の平等の精神を誤解させてしまう可能性があるのではないか。

法華経とは関係なく独立したものか?

この安楽行品に関して、仏教学者の植木氏は著書の中で、
この安楽行品は、いろいろ検討してみると、法華経とは関係なく独立して作られたものと考えるしかない。一般社会から非難されないように、修行の戒律をまとめたもの、という性格が強い。安楽行品には、律の規則と同様、世間的を気にする教団の論理が見え見えなのです。」
という見解を示している。当時、この品を編纂した人達は修行僧達で、彼らが所属していた教団の戒律要素を次々に入れたという見解なのだ。そもそもこの品自体が法華経成立とは別に作られたものだと結論付けている。

その根拠の一つとして、この前品である勧持品からの流れの違和感にも触れている。前後のつながりがおかしいとの指摘だ。

勧持品から安楽行品のつながり

ここで法華経のストーリーを確認してみると、勧持品では、出家者達が最も厳しい娑婆世界を避けた上で「釈尊滅後に、娑婆世界以外で布教します」と誓願する。それを聞いた釈尊は、何も言わずに菩薩達の方を注視して一段の覚悟を促す。その視線に気付いた菩薩達は獅子吼で応えて、最後の偈において不惜身命の覚悟で滅後の布教を誓う。彼らは、ありとあらゆる(三類の)増上慢の輩たち(国王・大臣・婆羅門・居士・及び余の比丘衆)からの種々の迫害(数数見擯出、罵詈毀辱、刀杖を加うる)を予期しており覚悟を決めている。このように菩薩達の決意が最高潮に達した所で勧持品は終了する。

ところが、その次の安楽行品になると「釈尊滅後の悪世に於いてこの法門をどのように説き明かすべきか」という問いに対して、釈尊の回答が四安楽行なのである。その中の身安楽行では自ら交際範囲を制限するように警告している。どうも前品に比べて一気にトーンダウンしたように感じてしまう。

更に、第二の法(口安楽行)では、打撃を受けることもなく、非難の言葉を受けることもない、追放される(擯出)こともない、つまり迫害されることが無いことが説かれている。加えて、第四の法(誓願安楽行)を具えた菩薩は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・国王・王子・大臣・人民・婆羅門・居士たちによって、称賛され、尊重され、尊敬され、供養されるとある。これらの箇所には勧持品とは全く逆のことが説かれているのだ。

このように見てみると、確かに勧持品と安楽行品とのつながりには違和感を覚える。

勧持品から従地涌出品の方が

ストーリーの流れを考えれば、勧持品の次は従地涌出品に進んだ方が自然に思える。勧持品の中で、釈尊滅後の娑婆世界に於ける布教がどれほど困難であるか最大限に強調された。それを担う本命中の本命(上行菩薩が率いる)地涌の菩薩がいよいよ登場する。

安楽行品の価値は

ただし、『四安楽行』自体は極めて真っ当な内容であり、仏法者として重要な姿勢が説かれている。これらが間違っているとは思わない。法華経の精神に反するものではない。更に『髻中明珠の喩え』の段では法華経最勝が説かれている記述がある。これは極めて重要な箇所である。従って、当該品が全て「法華経とは関係なく独立して作られた」ものとは思えない。

私が違和感を覚えているのは、上記の通り「適切な交際範囲」での個別職業と特定カースト層の記述部分と、当該品が配置されている順番である。順番に関しては、この安楽行品は勧持品の前に置くべきだった。

正宗分で重要な品なのに

仮に、観世音菩薩普門品・妙音菩薩品・普賢菩薩勧発品・妙荘厳王本事品・陀羅尼品・薬王菩薩本事品の6品が、後世の挿入であったとしても。これらの品は流通分と位置付けられており、中核部分ではない。

しかし、この安楽行品は、法華経のストーリーに於いて本筋中の本筋の品である。それが「法華経とは関係なく独立して作られたもの」だとしたら、根底から揺らいでしまうではないか。上記の流通分6品とは重みが違うのだ。

大聖人が、種種御振舞御書などで、諸天善神へ諌暁された重要な依拠となる品である。当該品の中で「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」「天の諸の童子、以つて給仕を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と諸天が法華経の行者を守護することを誓っているのである。

この経典の裏付けが無くなってしまうのだ。

「摂受」を説いている品

大聖人はこの安楽行品を『摂受』を説いている品と位置付けられた。「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし」(開目抄)と仰せの通りである。同じく開目抄で「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし」との見解を示されている。また、摩訶止観や弘決を引用され、仏説には二種類あり、一切の経論は摂受・折伏の二つを出ることはないとの見解を示されている。これらの御文から、大聖人は当該品に対する違和感は無かったと推察される。

大聖人は、当該品を摂受を代表する品であると重要視された。それを思うと「法華経とは関係なく独立して作られたもの」という見解を簡単に受け入れるわけにはいかない。結論を軽々に下すのではなく、今後も慎重に考察を進めていきたい。



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創価は巨大な中央集権組織である。日本全国に広大なピラミッド型組織を作り上げている。だが果たして、純粋な信仰を貫きたい人にとって、今の創価のような、全国統一的な組織活動など必要なのだろうか。

選挙支援=全国統一活動の典型

特に顕著なのは選挙支援活動である。選挙の時期になると、全国一斉に選挙態勢になる。本部中央組織から活動の指針の打ち出しが下りてくる。こうして末端の隅々まで統一的な活動が求められる。末端の会員の行動は、友人・知人・家族親類などへ候補者のお願いに回るのである。その行動の結果を、逐一上へ報告をあげなければならない。地区から支部へ、支部から本部へ、本部からゾーンや県へ、総県へ、最終的に本部組織へ吸い上げられる。水も漏らさぬ管理体制である。

選挙終盤になると恒例の「今回は相当厳しい」という激が飛び、活動家達へ更に鞭が入る。そうすると今まで当たって無い友人・知人を何とか探し出し必死になってお願いに周る。最早やっていることは選挙事務所のスタッフそのものである。これのどこが信仰活動なのだろうか。『集票マシーン』と言われても仕方が無い。

個人の幸福に全く関係ない全国統一活動

そもそも信仰の目的は、私達一人一人が日蓮仏法を根本に日々の生活に反映することだ。それぞれ個々の課題なのだ。そこに選挙支援活動など全く関係がない。新聞推進や書籍推進などが主体になるべきではない。個人の幸福の為の信仰活動のはずなのに、なぜ一々に中央組織まで報告する必要があるのだろうか。

創価はこれらの組織活動を『幸福の軌道の公転の役割』だと指導している。地球が太陽の周りを公転するように、宇宙の正しい軌道に乗っている活動だという意味らしい。しかし、この説明には相当無理がある。正しい軌道である根拠は一体何処にあるのか。何の根拠もないのである。

こんなものを『自分自身の戦い』『信心の戦い』に位置付けていること自体が間違っているのだ。こんなものを主体にしてる事自体が『組織おすがり信仰』に直結してしまう事に気付いて欲しい。

組織活動をするなら各地域ごとに

本当に必要な組織活動は、身近にある地域単位で考慮すべきだろう。それぞれの地域で課題が違っているのだ。地域のメンバー同志が話し合って活動方針を決めれば良い。その課題を重点的に克服する。『上位下達』の打ち出しをこなすだけの現在の組織活動よりも、それぞれの地域の特色に合わせた活動形態に切り替えた方が遥かに良いだろう。

地域単位に組織分割すべき

もっと踏み込んでいえば、現代に於いて、信仰の世界に巨大な中央集権組織など必要ない。信仰組織に専属職員など必要ない。有志達がボランティアで運営すれば良い。肥大化した巨大組織をそれぞれの地域単位で分割して、やっていけば良い。これが本当の意味での地域密着組織の姿だろう。



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