創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

(メモ段階)

戒壇本尊は板本尊であり、さらに漆・金箔加工がなされている。

日蓮正宗の公式見解として
「弘安二年(1279)十月十二日に出世の本懐として『本門戒壇の大御本尊』を顕されたのです。この御本尊は末法万年の流布を慮られて、楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています」(「日蓮正宗入門」より)

つまり、大聖人自らが、紙幅の御本尊ではなく、楠の板に直接に曼荼羅を図顕されて、それを日法に彫刻することを命じたとの見解なのである。

大聖人御在世の時代に於いて、果たして板本尊の漆・金箔加工は可能だったのだろうか。

食料・衣類等、困窮を極めた大聖人の状況から、金箔加工をする余裕など無かったと思われる。(*捕捉追記を段階的に加える。。。)




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(メモ段階)

最近よく思索するのは、トルストイの超大作『戦争と平和』である。私も若い頃から何度も読み直した素晴らしい作品である。

BBC版では2016年に最新の映像技術によってドラマ化された。あのBBCが2年半をかけてドラマ化した渾身の作品となっている。

とにかく圧巻の映像美である。エカテリーナ宮殿をはじめ、白樺の並木道や、ロシアの美しい田園風景、ボロジノ会戦のパノラマの光景、等々枚挙に暇がない。これを映像化してくれただけでも価値がある。

しかし同時に映像作品の限界も感じた。一例を挙げれば、小説の中での、ボロジノ開戦前のアンドレイとピエールの会話が、ただの恋愛話にすり替わっているのである。これは残念だ。原作を読んだことが無い視聴者層に配慮したのだろうか。しかし、この会話の中にこそトルストイが訴えた『ロシア魂』そのものが語られているのだが。

当記事では、映画・ドラマ批評のような事をするつもりはない。ただただトルストイ原作の深さを再認識させられ、深く思索し続けている。

あの英雄ナポレオンの言葉すら「蠅の唸り声」と突き放し、歴史は一人の英雄が作るものでは無いとするトルストイの透徹した歴史観。深く惹かれるものがある。

物語後半でプラトン・カラターエフというロシアの農民兵が登場する。ナポレオンが武力の英雄なら、カラターエフは精神の英雄として描かれている。ピエールは捕虜生活の中で彼に感化される。後に
彼(ピエール)は目的を持つことができなかった。なぜなら彼は今や信仰を持っていたからである。それはある種の法則か、あるいは言葉か、あるいは思想に対する信仰ではなく、生命ある、常に感じられる神に対する信仰だった。以前に彼は自分に課した目的の中にそれを求めていた。この目的の探求がとりもなおさず神の探求だった。そして、ふいに彼は捕虜生活の中で、言葉や考察によってではなく、直感によって、子供の頃から乳母に聞かされてきた「神様はほらそこにいらっしゃるでしょ、神様はどこにでもいらっしゃるんだよ」ということを感じたのである。彼は捕虜生活の間に、カラターエフの中にある神のほうが、フリーメーソンの信仰する宇宙の建造者の中にある神よりも、偉大で、無限で、究めがたいものであることを知ったのである。




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(メモ段階、文章化はこれから)

大石寺第4世の日道師(1283~1341:鎌倉時代~室町時代初期)による伝記『三師御伝土代』は、日蓮大聖人の伝記としては最古の部類となり、信頼性の高い文献とされている。ちなみに三師とは日蓮大聖人・日興上人・日目師のことである。この三師に関する伝記をまとめた著作である。

内容は、大聖人に関する重要な出来事。清澄寺での修行時代、立正安国論提出、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、竜の口の法難、佐渡流罪、御遷化に至るまで簡潔に記述されている。

現在の大石寺の教義で最も重要とされているのは「弘安2年10月12日、戒壇本尊が建立された」出来事である。「出世の本懐」としている。だがこの著作の中のどこにも戒壇本尊・板本尊の存在は明記されていない。つまり日道師は最重要事項を明記していないことになる。果たしてそんなことがあるのだろうか。


日興上人御伝草案の中に
日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云、日秀日弁は市庭滝泉寺を擯出せられ給ふ。
熱原の法難の経緯が記述されている。この法難を契機に、大聖人は御本尊を認められたとある。だが、ここで肝心の戒壇本尊のことは一切明記されていない。

御真筆の本尊を見ればわかるが、授与者の名前が書かれている。例えば、日頂師に授与した御本尊には『日頂上人授与』と書かれている。普通に考えれば、この文章は『日興上人授与』と書かれた御本尊を認められたことになる。(大石寺系は「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」を強引に解釈して、戒壇本尊図顕の根拠にしているようだが。無理がある)



日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。
ここで注目すべきは「本門教主は久遠実成無作三身」の箇所だろう。大聖人の御書から無作三身があるだけで偽書扱いする連中がいるが、最古の文献でも無作三身の概念は用いられていた事が確認できる。

また、「本地は寂光、地涌の大士上行菩薩」とある。昔から本仏論争で解釈が分かれる所である。しかし、そもそも上行菩薩自体が菩薩仏であり、久遠の昔からの寿命無量阿僧企劫であったことを考えれば、末法の仏としての自覚を持っておられたことは明白である。



仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな
日道師は「仏滅後二千二百三十余年」と明確に指示している。一方、ここでも戒壇本尊の讃文「仏滅後二千二百二十余年」と記述が相違している。


日道師の時代には戒壇本尊が存在しなかったと考えるのが自然だろう。




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ダメ出し氏が、私の過去記事の断片を切り取って、ブログ記事にしていた。『創価活動家ブログ』として扱い、それを囲いの人達に攻撃の材料として提供している。(私に何の断りもなく)勝手に記事の断片を引用されて、このような創価叩きの材料として使われるのは非常に心外である。

最初に説明しておくが、私はアンチ創価ではない(当ブログのスタンス)。ダメ出し氏のように、全ての出来事を創価叩きに利用するような姿勢ではない。私は、いずれの組織であろうと、個人であろうと、善いものは評価し悪いものは批判する姿勢である。創価の良い点があれば正当に評価する。人間として当然の姿勢であろう。

だからといって、ダメ出し氏が『創価系・創価脳』というレッテルを貼り攻撃をするのは如何かと思われる。以前の記事でも、私のことを『創価莫迦ツドウカ』『半端な創価狂学莫迦』と酷いレッテルを貼り攻撃してきた。

なお、私の主張はブログ開始当初から終始一貫している。何も変わってはいない。戒壇本尊に関しての見解もそうである。疑問点は隠さずに記事に書いてきた。

ダメ出し氏は、他人様のブログを部分的にしか読まずに、勝手に決めつけてレッテルを貼る人物であることが明らかになった。非常に残念である。

本物は科学的検証と相反しない

私が戒壇本尊の科学的検証を提唱したのは、最大の理由は未来の信徒の為である。記事(リンク)の断片だけではなく全文を読んで頂きたい。

もしも、戒壇本尊が科学的検証・文献学的検証に耐えられないのなら、それはただの迷信の産物に過ぎない。ありとあらゆる疑惑を検証し、それでも残ったものにこそ本物の価値がある。

純粋に日蓮仏法を信じる者ならば真実を求めるべきである。妄信に陥ってはならない。

疑問を持つことも許されない

「日蓮仏法(大聖人を御本仏と崇める)を信じるものは少しでも戒壇本尊に関して疑問を持ってはならない」「歴代法主に対して疑いを持ってはならない」このような姿勢では視野狭窄の信仰しかもたらさない。

少しでも疑問を持った者を、或いは真実を求める者を「不信だ! 無信心になった! 謗法だ!」と悪事のように扱い、攻撃の対象とする。これが『大御本尊・原理主義者』の姿勢なのである。

都合の悪い事実から逃げ続ける姿勢

彼が反応すべき点はそこではない。戒壇本尊の検証された事実にこそ反応すべきなのだ

ダメ出し氏は、戒壇本尊に対しての疑惑にただの一度も答えていない。戒壇本尊が法主の書写と異なる点(リンク)、戒壇本尊が御本尊七箇相承と異なる点リンク(御本尊七箇相承が)日興上人書写の本尊と異なる点リンク、彼はこれらの点をスルーして逃げ続けている。事実を直視しようとしないのだ。

都合の良いことだけ反論し、都合の悪いことはスルーする姿勢では、日蓮仏法の真実には到達できないことは明らかである。



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もはや僧侶が必要な時代では無くなった。『職業僧侶』という点では、学会や顕正会等々の本部職員も同様である。「宗教でメシを食っている人達」こういう連中は必要ではなくなった。

僧侶が必要だった時代

昔は僧侶や寺院が必要であった。寺院にて中央集約的に管理して、教義を保つ役割が大きかった。また、書物の保管の役割もあった。一般の民家は地震や火事で焼失しやすいので、一般の檀徒に保管は任せることは出来ない。このような背景があったので、必要であった。

教義の保管・重要書類の保存という点で見れば、彼等には一定の評価はしている。

現代に於いては

翻って今の時代はどうか?と考えたとき、もはや僧侶や寺院の役割は終わった。むしろ弊害の方が大きい。「御僧侶様」「本部職員様」が上。一般信徒が下。という構図が起こりやすい。

洋の東西を問わず。例えばキリスト教の歴史を見れば、幾世紀も、教会の支配に隷属していた事実がある。魂まで教会の司教に依存していたのだ。神と自分の間に僧侶が入り込んでいた。これが不幸の根源である。日蓮仏法で言えば、自分と御本尊の間に、法主や組織や偶像(永遠の師匠等々)が入り込んでいるのである。これが『おすがり信仰』に陥りやすい遠因となる。

仏法の修行方法は時代と共に変化する

なをいかにとしてか此功徳をばうべきぞ、楽法梵志・雪山童子等のごとく皮をはぐべきか・身をなぐべきか臂をやくべきか等云云、章安大師云く「取捨宜しきを得て一向にすべからず」等これなり、正法を修して仏になる行は時によるべし、日本国に紙なくば皮をはぐべし、日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし、日本国に油なくば臂をも・ともすべし、あつき紙・国に充満せり皮を・はいで・なにかせん(日妙聖人御書)
と仰せのように仏法の修行方法は時代と共に変化する。紙が身近にある時代に自らの皮を剥ぐ必要がないように。ネット上に御書の全てが公開されている時代に於いて「御僧侶の導きがなければ正しい修行ができない」などということはありえない。

もはや今の時代は情報がオープンになっている。御書は何処でも手に入る、ネット上でも読むことが出来る。僧侶や寺院に頼ること無く、存分に御書を研鑽できるのである。信徒一人一人が御書を根本にして日々の生活を充実させることが可能なのである。



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想学談林「運ちゃん」氏は、釈迦の教えを以下のように『我見解釈』している。
釈迦が説き広めた教えに一番近いのは、今で言う原始仏教だと僕なんかは考えていますが、そこの教えは執着を断つ事、心を平静に保つことなどがあり

僕が思うのは道徳律というか、心を落ち着かせる要点というか

この主張には強い違和感を覚える。
道徳律だの、心の平静を保つだの、その程度の目的ならば、わざわざ難解な仏教を研鑽する必要があるのだろうか?

心の平静を得たいのならば、イメージトレーニングや、呼吸法を実践するなど、その程度でも充分だろう。

道徳律を養うならば、古今東西の道徳について説かれた書物(孔子や)を研鑽するなど、或いはボランティア活動に勤しむ、丁稚奉公の修行をする等々、幾らでも方法があるではないか。

仏教は『八万法蔵』と言われるように膨大な経典があり、余りにも複雑で難解である。しかも経文が誰が何処で書かれたのか不明なものが多く、偽経疑惑も多く、文献の証明も無かったり不確かな部分が多い。それらの検証をするだけで一生かかっても到底追いつかない程である。

そのような膨大で難解で複雑な仏教から「運ちゃん」氏が学んで得たものが、単なる道徳律だの、心の平静だの、この程度なのである。なんと浅薄な結論なのだろうか。

彼は以前にTwitterで
仏教も哲学も、自分がこの人生を生きるための参考書程度と考えるべきではないのかね。そこを「不磨の大典」と考え依存するからおかしくなる。(ソース
と言い放っているから、所詮はこの程度の認識しか無い人間なのだ。

一方、彼は『死の問題』に関して、仏教では役に立たないからといってNDE(臨死体験)にその答えを求めているのである。キューブラー・ロス氏の著作をバイブルのように重視している。生死の問題は最重要事項である。もはや彼の思想の主軸はNDEにあるといって良いだろう。

彼の仏教に対するこのような軽薄な姿勢では、これ以後も、幾ら時間をかけて仏教知識を得たとしても時間の無駄になるだけだろう。



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大聖人でなければ顕せない世界・景色があるのではないだろうか。甚深なる思想。そこから顕された配置・相貌ではないだろうか。勧請された諸尊の文字の間隔・座配・字の跳ね具合、特に中央主題の「南無妙法蓮華経・日蓮」の凄まじい躍動感は他の誰にも真似が出来ない程である。

いくら筆跡を真似ても、勧請された諸尊を似たような座配で描いたとしても、他人では表現できない甚深の領域があるのではないだろうか。

あのレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が、本物と贋作では隔絶の差があるように。構図や色彩、タッチ等々。本人にしか表現できない世界があるのではないだろうか。




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創価の活動家は、組織の魅力をこう訴える
「創価家族と言われているコミニュティーの中での、心のひだに届くような叱咤激励、君が憂いに我は泣き、我喜びに君は舞うという学会歌にあるような組織文化」があるという。

なるほど確かに会員同士の温かい交流もあるだろう。ある種の互助会のような役割はある。そこは否定しない。

しかし、それは創価だけが特別ではない。一般社会に幾らでもある。例えば重い病を抱える家族会や、障碍を持つ子供をサポートする会などは、もっと心の籠った交流がある。言葉一つ一つを大切にする。家族の悩みも一緒になって取り組んでくれる。或いは、若者に教育支援や生き甲斐を教える会もある。高齢者にきめ細やかなサポートをする会もある。そのような会は枚挙に暇がない。

この点は創価だけが飛び抜けて優れている訳でも何でもない。さらに現状の創価は、組織の打ち出しに従わない人・活動方針に異議を唱える人を、査問だの除名だのドンドン排除していっている現実がある。その温かい『創価家族』すら、組織に従順に従うという前提条件なしには成り立たないではないか。そうなると、何の制約もなく純粋にサポートしてくれる後者の会の方が遥かに勝れている。

「現証」をアピール

創価の活動家は、組織の正当性をアピールしている
「(日蓮正宗・創価学会・顕正会の中で)池田名誉会長の指導によって、詐欺と言われる創価だけが飛び抜けて世界192カ国・地域に広まっているという現証」を誇っている。まるで数こそが正義の証明だと言わんばかりである。

しかしイスラム教、キリスト教の信者数は10億人を軽く超えている。その論理でいえばイスラム教・キリスト教の方が遥かに「現証」を出していることになる。つまり人類社会から認められていることになろう。日蓮仏法よりも優れている事になってしまうのだ。

そもそも大聖人御在世の日蓮教団の数は、遥かに少数だった。念仏宗などの方が遥かに多かった。では念仏の方が優れているのか。そんなはずはない。信者の数よりも教義の内容が重要なのは言うまでもない。

要するに、教義の面での優位性を主張できないから「現証」を強調するしかないのだ。




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創価は絶対平和主義を唱えている。戸田会長が提唱した『原水爆禁止宣言』は創価内では有名であり、これが淵源とされているほど重要視されている。

ところが、牧口会長の著作『価値論』の中に気になる記述がある。
科学が純粋の真理を求めつつ、しかも討究して得られた定理が人間の幸福生活へ実践行動化すると同様に、この宗教も純粋なる生命哲理を最高へと組み立てつつ、その最高無上の定理は人間の幸福生活への実践として行動化されているのである。譬えば、原子核の分裂と云う事は今の科学に於いては最高のものであるが、この原子核分裂の定理は単なる学問として止まるものに非ずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている。

(戸田城聖補訂版『価値論』「第5章 価値の系統」「第6節 宗教と科学・道徳及び教育との関係」から)
驚いたことに『平和を守るための原子爆弾』という、およそ仏教徒の発想とは思えない主張がなされているのだ。

牧口会長が戦時中に原子爆弾の情報を持っていたとは到底考えられない。となれば、この部分は戦後に補訂版を作成するときに、付け加えられた文であると推測できる。どうやら戸田会長の『科学と宗教』という論文の内容が付与されたようである。これは大白蓮華(1953年7月10日)の巻頭言に『科学と宗教(二)』として寄稿された文章と一致するので間違いないようだ。

ということは戸田会長は、原子爆弾が平和を守る為の役割を担うと考えていた時期があったことを示唆している。原爆が広島・長崎と二発も投下された後にこのような見解を持っていたとは驚きである。これにより日本が無条件降伏をしたため戦争が早く終わって平和が訪れたという意味なのだろうか。或いは、いわゆる『核の抑止力』で核保有国同士の均衡を保つという意味だろうか。

この見解から、年を経て、やがて1957年の『原水爆禁止宣言』での
たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔物である
「核兵器の使用は絶対悪である」という発言に変化していく。これは明らかに正反対の主張である。

戸田会長の平和思想とは実際にはどのようなものだったのだろうか。今後の更なる研究を待ちたい。



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大詩人ユゴーは詠った
どこへいくのか、この飛空船は?
船は進む、日光の衣を身に着けて、
神聖で清らかな未来に向かって、美徳へ向かって、
輝き渡る科学へ向かって、
災いの滅びる世界へ、過ちを水に流す寛大な世界へ、
豊かさと、静けさと、笑いと、幸せな人間とが住む世界へ向かって!
船は進む、この輝かしい船は。

権利と理性と友愛とに向かって、
ごまかしも、包み隠しも決して有り得ない、
宗教的で神聖な真理に向かって、
心と心とを優しい絆で結ぶ愛に向かって、
正義と、偉大と、善と、美とへ向かって
―――お分かりだろう、あの船は本当に満天の世界へと昇っていくのだ!


この船は空の高みで、偉大な結婚を成し遂げる。
人類の魂を神に結びつけるともいえる。
計り知れない無限を見て、それに触れるのだ。
この船は空をめざして昇っていく進歩の大きな飛躍。
現実が傲然として神聖な姿で、
人を寄せ付けなかった古代の理想の中へと入っていく姿。

ああ!この船の一歩一歩は無限の世界を征服する!
この船は喜び、この船は平和。人類はその意志の広大無辺な代行者を見つけたのだ。
神聖な簒奪者、祝福された征服者、
この船は空を進み、毎日いっそう遠く、無限の中に分け入らせる。
真の人間が始まる。暗い点のような自分の姿を。

この船は耕す、大空の深淵を。この船は作り上げる、大空に畑を。
大暴風や、冬や、旋風や、すさまじい風の音や、
嘲りの声がそれまでは雑草のようにはびこっていた空にすばらしい畑を。
この船のおかげで、万物の和合が大空で、麦束のように刈り入れられる。
船は進む、神秘な大空の畑を豊かにしながら、
雲の畑を鋤で厳かに耕しながら。

この船は人間の命を、空の畑に芽生えさせる。
神がまだこれまでに、夕日という種しか蒔かず、
夜明けという収穫しかしたことのない畑に。
船は聞く、澄みきった穏やかな空気を裂いて飛んでいくその下で、
今や主権者となった諸国の民衆が、成長しながらざわめくのを、
民衆という広大な麦の穂のざわめきを!

この上もなく素晴らしい不思議な飛行船よ!
ただ進んでいくだけでこの船は、
変えたのだ、地上の嘆きを清らかな喜びの歌に。
若返らせたのだ、衰えた数々の民族を。
打ち立てたのだ、真の秩序を。指し示したのだ、誤りのない道を。
ユゴーは重さを悪だと考えていた。原初の幸福な状態から、被造物が堕落してしまったのは過ちを犯し重さを持ったからだとしている。

人類が重さから解放されて、限りなく光の方へ上昇することこそ、人類が幸福で輝かしい未来へ達する条件である。ゆえに、重力の支配を断ち切って大空高く悠然と舞う飛空船は、ユゴーにとって人類の進歩のこの上ない象徴になる。

物質は悪を宿す。従ってその重さの為に宙に浮かぶことはない。飛空船は悪そのものである物質で出来ている。本来は上昇することのない物質が科学技術(航空技術)によって重力の支配を断ち切り、天高く上昇するのである。これは奇跡そのものであった。

飛空船は人々を世界中のあらゆる所へ運び、諸民族の間の自由な交流を活発にする。相互理解と友情が増進されていく。やがて人類が一つにまとまり、戦争の無い世界共和国が誕生するというのがユゴーの考えであった。

ユゴーは20世紀に理想郷を描いていたのだろう。ところが現実の20世紀は戦争の世紀であった。航空機の技術は戦闘機による空中戦へと展開されていった。空からの爆弾の投下。極めつけは原爆の投下によって地上に地獄絵図を作り出してしまった。前世紀よりも遥かに多くの犠牲者を生み出してしまった。もしもユゴーがこの結果を知れば驚愕するだろう。


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