創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

そもそも大聖人が日興上人を二箇相承に於いて『本門弘通の大導師』『身延山久遠寺の別当』に本当に任命されたとするならば、その旨を門下の僧侶・檀徒達全員に披露し、大聖人が日興上人を後継者に選定して任命した旨を宣言されてないと、おかしいではないか。

現代の日蓮正宗に於いても、法主の代替わりの時には、現法主・新法主が前法主から相承を受けて法主に登座したことを、内外に宣言し、座替式を行った上で、さらに代替奉告法要を行っている。

それと同じ道理で、二箇相承を門外不出の秘密文書にしてしまっては、門下達の見解の不一致による混乱を招いてしまい、かえって教団全体の統制がとれなくなってしまう。

このような相承書というものは、秘密にするのではなく、むしろ積極的に公開されていくべき筋合いの文書である。

更に『身延山付嘱書』にいたっては、身延山久遠寺の別当職を譲るという、財産譲渡をも含む内容であり、かつそれに背く在家出家を『非法の衆』とまでいわれているのであり、これが公表されなければ全く意味をなさぬばかりか、却って混乱を招くだけである。

従って二箇相承は本来ならば、大聖人が書いたとされる時点で、全面的に公開されていないとおかしい。そして公開した上で、日興上人が『大導師』『身延の別当』に就任することを宣言する法要が行われていなければ、おかしいのだ。

しかし大聖人・日興上人在世の時代に、この二箇相承が存在していたことを証明する記録はまったく残っていない。また、日興上人が『大導師』『身延の別当』に就任することを宣言する法要が身延山久遠寺でも、池上でも行われた形跡はないし、そのような記録は全く残っていない

これらの矛盾を整理していけば、二箇相承がいかに信憑性が低い文書なのかは明白である。



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(メモ段階:長くなる予定)

結論からいうと、二箇相承は偽書という他ない。



二箇相承は、日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)と身延山付嘱書(池上相承書)の二つの文書からなる。日興門流は、これが大聖人から日興上人への唯授一人血脈相承の根拠だと主張している。


日蓮正宗の御書に載っている文書

早速、内容を見ていきたい。以下は日蓮正宗の資料としての二箇相承である。

日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

弘安五年(壬午)九月 日            日蓮花押
                       血脈の次第 日蓮日興
ここには「九月 日」と書かれており日付が記載されていない。

身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。

弘安五年(壬午)十月十三日          武州池上
                       日蓮花押


大聖人の真筆という疑義
身延を出立され常陸の湯へ向かわれた目的は、病気の療養の為とされている。大聖人のお体は相当衰弱されておられた。その道中「波木井殿御報」にて「所らうのあひだはんぎやうをくはへず候事恐れ入り候」と仰せになっている「病身のために判形(花押)を加えません」と仰せなのだ。病気が重く手紙はおろか花押(サイン)すら書けない状態だったのだ。こんな状態で二箇相承の二つの文書を御自分で全文書けるはずがないだろう。



北山本門寺に伝わっている疑義
上記の二箇相承の真筆とされる文書が北山本門寺に伝わったとされている。戦国時代の武田勝頼の軍によって奪い取られたとされている。その後、真筆は紛失してしまったとされている。
何故に大石寺ではなく北山本門寺に伝わっていたとされているのか。もしもこれが『唯授一人血脈相承』の相伝の文書であるならば、日興上人が日目上人へ法を付属した時に、当然ながら譲り渡すべきだっただろう。そうせずに重須のある北山本門寺に残し伝えられたわけである。普通に考えて不自然であろう。大石寺の秘密文書であったなどと言えまい。



秘密にする疑義
池上相承書には「大聖人の法門の唯一相承」と「身延の別当就任」という極めて重要な事項が書かれている。これほど重要な事柄を秘すのはおかしい。これこそ臨終の前には、主要な弟子一同に伝えておかなければならない内容だろう。『宗祖御遷化記録』の中に入っていなければならない程の内容である。



左京日教師の写本

ここから、左京阿闍梨日教師の写本について検討していきたい。京都・住本寺系(後の要法寺系)の高僧で、後に大石寺第九世日有師に帰伏した。元々の僧名は本是院日叶であったが、後に左京阿闍梨日教と改名した。

二箇相承の全文を載せた最古の文献は、日教師による著作の『類聚翰集私』である。この中で日教師が書写した二つの文書が入っている

身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十余年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出出家共の輩は非法の衆たるべきなり

弘安五年九月十三日            日蓮在御判
                     血脈次第 日蓮日興
甲斐の国波木井郷、山中に於いて之を図す

この文書の日付は9月13日と記載されている。ところが『元祖化導記』によれば大聖人が身延沢を出立されたのは9月8日とある。(この旅の目的は常陸の湯で病気の療養の為だとされている)。9月13日の時点では既に旅の途中にあり、甲斐の国波木井郷にはおられなかったのだ。



日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日興一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ事の戒法とは是れなり、中んづく我が門弟等此の状を守るべきなり、

弘安五年十月十三日            日蓮在御判

日辰師の写本

僧名は広蔵院日辰。天文法華の乱で焼失した住本寺と上行院を合併して要法寺を再興し、13代貫首になった。要法寺は言うまでも無く大石寺系とは違う他山である。この日辰師は釈迦仏像の造立を許容し、法華経一部読誦を助行の一環として扱った。大石寺の教義からみれば謗法に該当する。

現在の日蓮正宗が所持している二箇相承書は、日辰師が重須(北山)本門寺に出向いて書写したものである(正確には弟子の日燿に臨写させたもの)。他山の僧籍で更に謗法を唱えている僧侶が書写したものを採用しているのである。

堀日亨師が編纂した『富士宗学要集』の中に「日辰上人、正筆御拝覧の時、点画少しも違わず書写して、今本寺(大石寺)に在り」と記載されている。また、堀日亨師は『富士日興上人詳伝』の中で、この臨写本によって「原本の雰囲気を、いささかなりとも偲ぶに足りる」(趣意)と評している。同じく興詳伝の中で「(二箇相承書の正筆の)紛失より二十二年前、日辰上人原寸の通り自ら臨写せるが版行せられたるもの」と述べている。日辰本は、それほど信憑性が高いという評価がなされているのだ。

以下がその日辰師の書写文書である


日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年壬午九月 日        日蓮在御判
                    血脈の次第 日蓮日興


身延山付嘱書(池上相承書)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬午十月十三日           武州池上
                    日蓮在御判

この日辰師の書写文書だが、日教師書写の文書と比べて大きな違いが一点みられる。それは日付以下の文章が完全に正反対に書かれているのである。入れ替わっているのだ。これは一体どういうことだろうか。どちらの書写文書も大元の原本は大聖人真筆の二箇相承書のはずだ。それがなぜ互いの文書の日付と場所が入れ替わるような内容になってしまったのだろうか。

他にも若干の文章の表現の違いが見られる。「『付属す』と『相承す』の違い」等々




身遠山

上記の日辰写本は、元は純漢文で書かれた文書である。それを読み下し文として記載されている。その漢文体の写本に一点おかしな記述がある。

(漢文)
可為身遠山
久遠寺別当也

(読み下し分)
身延山久遠寺の別当たるべきなり

なんと身延山久遠寺を『身遠山』久遠寺と書いているのだ。「日辰上人、正筆御拝覧の時、点画少しも違わず書写し」たはずの書写文書におかしな記述があるではないか。

この身延山久遠寺は、日蓮大聖人が直接命名された山号寺号である。地引御書にも十間四面の立派な大坊のことが書かれている。また 富木常忍などの門下達もこの為に御供養に尽力したようだ。まさに師弟一丸となっての建設事業であった。「一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし」と大称賛されておられる。それほど思い入れの強い寺院の名前を、(仮に真蹟があるとすれば)大聖人が真筆を認められた時に『身遠山』などと間違えることなど有り得ないではないか。必ず身延山久遠寺と書かれているはずである。

つまり日辰師が書写したのは大聖人の真筆とは到底認められない。となれば、日辰師は本当は何を元に書写したのだろうか。




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日興上人への唯授一人血脈相承など無かった。ただし日興上人が日蓮大聖人の法門を、六老僧の中で最も厳格に守り抜いたことは間違いがない。

五老僧達が、邪宗の坊主達と連携して異国調伏の祈祷に参加したり、神天上の法門から見れば諸天善神が去ってしまい謗法の住処となった神社に参拝を許したり、大聖人の法門を汚す行いをしていた。師匠への背信行為である。そのような中で日興上人お一人だけが、その過ちを明らかにし責めた。

『神秘的な相伝の伝説』を根拠にしているから後継者として扱われるのではない。日興上人はその行いによって正当な後継者になったのである。




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(メモ段階)
徹底的に検証して考察した結果、以下のような結論に達した。大聖人は、御自身の滅後は、臨終の際に定めた高僧六人による集団指導体制を望んでおられた。大事なことは六人の合議で決定して進めるように望んでおられた。日興上人への唯授一人血脈相承はなかった。日興上人は身延の別当には就任されていない。


『宗祖御遷化記録』によれば、大聖人の入滅の前の遺言というべき内容が示されている
 定
一弟子六人事 不次第
    一、蓮華阿闍梨日持
    一、伊与公日頂
    一、佐渡公日向
    一、白蓮阿闍梨日興
    一、大國阿闍梨日朗
    一、弁阿闍梨日昭
    右六人者本弟子也 仍為向後所定如件(仍て向後の為定むる所件の如し)
    弘安五年十月八日
本弟子6人を定め、この本弟子六人は序列なく『不次第』とされた。

もしもこの時点で日興上人が相承を受けていたならば、「定」の序列を「不次第」とする断り書きをする必要など無く、日興上人が最上位の位置に書かれているはずである。



「大導師」「身延の別当」とは到底思えない事実

二箇相承には、日興上人は大聖人から直接『本門弘通の大導師』『身延山久遠寺の別当』に任命されたとある。もしもこれが本物ならば、その後の大聖人の入棺および葬送の儀式では、日興上人が『大導師』としての務めを果たす最初の仕事になるはずだ。

ところが宗祖御遷化記録を見ると、大聖人の御尊体は日昭師、日朗師により入棺されたと記録されており、大聖人葬送の儀式の法席を見ると、前陣=日朗師、後陣=日昭師となっており(これは大導師が日昭師、副導師が日朗師という意味である)、日興上人は後陣左で行列に参列したとある。つまり、日昭師や日朗師よりも葬列の法席が下位になっているのである。『大導師』であり『身延の別当』であるならば、こんな下位の法席になるなど有り得ないではないか。

日興上人が『大導師』『身延の別当』に就任することを宣言する法要が身延山久遠寺でも、池上でも行われた形跡はないし、そのような記録は全く残っていない。


認識を改めた理由

私は以前は、大聖人が日興上人を唯一の後継者に指名したと考えていた。大聖人は比叡山延暦寺を理想とされておられた。伝教大師は遺言で義真大師を後継者トップに指名したといわれている。であるならば、同じように日興上人へと継承されたものと思っていた。

だが、そのような資料は一切出てきていない。従来の認識を改めざるを得なかった。





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(まだメモ書き段階)

今までの検証記事を整理すると、戒壇本尊は大聖人御在世、日興上人の時代には存在しなかったと断じる他ない。つまり後の世に創作されたものである。

大石寺は、これに唯授一人の血脈相承の独自教義を展開し、『戒壇本尊の内証』と同じ内証を法主が受け継いだと主張している、こんなものを日蓮仏法と言い張るのは無理がある。

純粋な日蓮仏法の上に、大石寺系の戒壇本尊と法主御内証の教義を無理矢理に捻じ込んだものになっている。これは日蓮大聖人の仏法を歪めているという他ない。

大聖人は「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と仰せである。これほど法に厳格な方なのだ。戒壇本尊・法主内証という己義をどれほど嘆いておられるだろうか。




ただし、私は大石寺の教義全てを否定しているのではない。例えば、御義口伝は、以前に記事でも書いたが、コアな部分は『大聖人の法華経講義』を受け継いでいると認識している。

富士門流、なかんずく大石寺流の教義には、大聖人の仏法を純粋に守り伝えようとした部分と、自山の正当性・優位性を主張する為に、後の世に創作された部分がある。これらが入り混じった珠玉混合の状態なのだ。

日蓮仏法の信徒ならば、純粋な大聖人の教えを求めるべきである。後世の創作に惑わされてはならない。徹底的に真偽を検証し抜くべきである。




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(メモ段階)

日達法主の説法によると
戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」
(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)







戒壇本尊の大きさは、日量法主(第48世:1771~1851年:江戸時代)の『富士大石寺明細誌』によると
「一、本門戒壇の板大漫荼羅 一幅 日蓮聖人筆十界勧請御判の下横に並べ、現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日と、末代不朽の為に楠の板に書く、厚さ二寸二分、竪四尺七寸五分、横二尺一寸五分なり」
(富士宗学要集5巻334ページより)
とある。単位をcmに変換すると、厚さ二寸二分(約6.6~6.7cm)、縦四尺七寸五分(約143~144cm)、横二尺一寸五分(約65cm)となる。

このサイズと、材質が楠の板であるので楠の平均重量から、戒壇本尊の重量が推計されている。どれだけ少なく見積もっても100キログラム以上になるということだ。200キロ前後という推計もある。

それほどの重量がある戒壇本尊を、身延の質素な施設のどこに安置できたというのだろうか。大聖人は、身延に入られてからは、ずっと粗末な草庵を拠点にされていた。

大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が建立されたとしている。だが、弘安二年当時、身延に頑丈で立派な堂など無かったのだ。そのような所に無理に安置すると、堂の床が抜けてしまうのではなかろうか。そんな危なっかしい事ができるはずもない。つまり、安置できる場所など無かった。

このように状況を整理してみると、上記の日達法主の説法には、かなり無理があるのではないだろうか。



周知の事実だが、大聖人御真筆の本尊には板本尊など無い。殆どが紙に書かれた御本尊であり、僅かに絹に書かれた御本尊が存在する。

大聖人御在世の間は、板本尊に彫刻するなど一切されていない。そのような記録は一切ない。日蓮仏法の信徒ならば、この事をよくよく考えるべきである。





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(メモ段階)

戒壇本尊は、楠木を用いて掘られた板本尊であり、表面が黒漆で塗られており、更に彫った文字に金箔加工がなされている。

日蓮正宗の公式見解として
「弘安二年(1279)十月十二日に出世の本懐として『本門戒壇の大御本尊』を顕されたのです。この御本尊は末法万年の流布を慮られて、楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています」(「日蓮正宗入門」より)
つまり、大聖人自らが、紙幅の御本尊ではなく、楠の板に直接に曼荼羅を図顕されて、それを日法に彫刻することを命じたとの見解なのである。





大聖人御在世の時代に於いて、果たして板本尊の漆・金箔加工は可能だったのだろうか。

大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が図顕されたと主張している。ところが、同じ弘安二年に書かれた御書を見ると、
「五尺のゆきふりて本よりも・かよわぬ山道ふさがり・といくる人もなし、衣もうすくて・かんふせぎがたし・食たへて命すでに・をはりなんとす、かかるきざみに・いのちさまたげの御とぶらひ・かつはよろこび・かつはなけかし、一度にをもひ切つて・うへしなんと・あんじ切つて候いつるに」(上野殿御返事)
身延山中で厳しい寒さを耐えれる衣類はなく、食物さえ確保できず、餓死を覚悟されている窮状だったのだ。こんな状況で漆・金箔加工をする経済的余裕などあるはずがない。




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(メモ段階)

最近よく思索するのは、トルストイの不朽の名作『戦争と平和』である。私も若い頃から何度も読み直した素晴らしい作品である。

BBC版では2016年に最新の映像技術によってドラマ化された。あのBBCが2年半をかけてドラマ化した渾身の作品となっている。

とにかく圧巻の映像美である。エカテリーナ宮殿をはじめ、白樺の並木道や、ロシアの美しい田園風景、樫の老木の大樹、ボロジノ会戦のパノラマの光景、等々枚挙に暇がない。これらを映像化してくれただけでも価値がある。

しかし同時に映像作品の限界も感じた。一例を挙げれば、小説の中での、ボロジノ開戦前のアンドレイとピエールの会話が、ただの恋愛話にすり替わっているのである。これは残念だ。原作を読んだことが無い視聴者層に配慮したのだろうか。しかし、この会話の中にこそトルストイが訴えた『ロシア魂』そのものが語られているのだが。

当記事では、映画・ドラマ批評のような事をするつもりはない。ただただトルストイ原作の深さを再認識させられ、深く思索し続けている。

あの英雄ナポレオンの言葉すら「蠅の唸り声」と突き放し、歴史は一人の英雄が作るものでは無いとするトルストイの透徹した歴史観。強く惹かれるものがある。
われわれの一人一人が偉大なナポレオンより、人間として以上でないまでも、決して以下ではない、とわたしに語りかける人間の価値というものが、


精神の英雄プラトン・カラターエフ

物語後半でプラトン・カラターエフというロシアの農民兵が登場する。ナポレオンが武力の英雄なら、カラターエフは精神の英雄として描かれている。ピエールは捕虜生活の中で彼に感化される。信仰観まで変化をもたらす。後に
彼(ピエール)は目的を持つことができなかった。なぜなら彼は今や信仰を持っていたからである。それはある種の法則か、あるいは言葉か、あるいは思想に対する信仰ではなく、生命ある、常に感じられる神に対する信仰だった。以前に彼は自分に課した目的の中にそれを求めていた。この目的の探求がとりもなおさず神の探求だった。そして、ふいに彼は捕虜生活の中で、言葉や考察によってではなく、直感によって、子供の頃から乳母に聞かされてきた「神様はほらそこにいらっしゃるでしょ、神様はどこにでもいらっしゃるんだよ」ということを感じたのである。彼は捕虜生活の間に、カラターエフの中にある神のほうが、フリーメーソンの信仰する宇宙の建造者の中にある神よりも、偉大で、無限で、究めがたいものであることを知ったのである。




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(メモ段階、文章化はこれから)

大石寺第4世の日道師(1283~1341:鎌倉時代~室町時代初期)による伝記『三師御伝土代』は、日蓮大聖人の伝記としては最古の部類となり、信頼性の高い文献とされている。ちなみに三師とは日蓮大聖人・日興上人・日目師のことである。この三師に関する伝記をまとめた著作である。

内容は、大聖人に関する重要な出来事。清澄寺での修行時代、立正安国論提出、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、竜の口の法難、佐渡流罪、御遷化に至るまで簡潔に記述されている。

現在の大石寺の教義で最も重要とされているのは「弘安2年10月12日、戒壇本尊が建立された」出来事である。「出世の本懐」としている。だがこの著作の中のどこにも戒壇本尊・板本尊の存在は明記されていない。つまり日道師は最重要事項を明記していないことになる。果たしてそんなことがあるのだろうか。


日興上人御伝草案の中に
日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云、日秀日弁は市庭滝泉寺を擯出せられ給ふ。
熱原の法難の経緯が記述されている。この法難を契機に、大聖人は御本尊を認められたとある。だが、ここで肝心の戒壇本尊のことは一切明記されていない。

古語辞典を確認すると、この「遊ばす」というのは、「なさる」よりさらに尊敬の意の高い言い方で使われる。つまり「御本尊を書写なされた」と読むのが自然である。

御真筆の本尊を見ればわかるが、脇書部分に授与された者の名前が書かれている。例えば、日頂師に授与した御本尊には『日頂上人授与』と書かれている。

これらのことから普通に考えれば、この文章は『日興上人授与』と書かれた御本尊を認められたことになる。(大聖人は、普段は『伯耆房』『伯耆殿』と呼んでいた。それが上人という最大限の讃嘆に変わった。)

更に、弟子の日秀・日弁の二人にも上人号が贈られたとある。このことから考えるに、熱原の法難で戦い抜いた弟子達に対して最大限の讃嘆をされたということだろう。その最たるものが伯耆殿への『日興上人授与』と書かれた御本尊を授与したことだろう。ここからも、いかに大聖人が熱原の法難を重視されていたか伺える。




大石寺系は「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」の箇所を「日興上人と共に、戒壇本尊を建立された」と強引に解釈して、『師弟合作』と言い張って、戒壇本尊図顕の根拠にしているようだ。だが、この主張には相当な無理がある。仮に、この解釈で読み進めると、弘安2年10月12日に日興上人が身延の大聖人の元にいなくては辻褄が合わなくなる。ところが、その日には大聖人は日興上人に宛てて「伯耆殿御返事」を認められている。この中で様々な具体的な指示を与えられている。身延にいればわざわざ手紙で指示する必要もない。別の場所にいたからこそ手紙で指示を出す必要があったのだ。つまり、身延にいなかった何よりの証左である。このように大石寺系の解釈は余りにも無理があるのだ。





日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。
ここで注目すべきは「本門教主は久遠実成無作三身」の箇所だろう。大聖人の御書から無作三身があるだけで偽書扱いする連中がいるが、最古の文献でも無作三身の概念は用いられていた事が確認できる。

また、「本地は寂光、地涌の大士上行菩薩」とある。昔から本仏論争で解釈が分かれる所である。しかし、そもそも上行菩薩自体が菩薩仏であり、久遠の昔からの寿命無量阿僧企劫であったことを考えれば、末法の仏としての自覚を持っておられたことは明白である。



仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな
日道師は「仏滅後二千二百三十余年」と明確に指示している。一方、ここでも戒壇本尊の讃文「仏滅後二千二百二十余年」と記述が相違している。



これらの事項から総合的に整理すると、日道師の時代には戒壇本尊が存在しなかったと考えるのが自然だろう。




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ダメ出し氏が、私の過去記事の断片を切り取って、ブログ記事にしていた。『創価活動家ブログ』として扱い、それを囲いの人達に攻撃の材料として提供している。(私に何の断りもなく)勝手に記事の断片を引用されて、このような創価叩きの材料として使われるのは非常に心外である。

最初に説明しておくが、私はアンチ創価ではない(当ブログのスタンス)。ダメ出し氏のように、全ての出来事を創価叩きに利用するような姿勢ではない。私は、いずれの組織であろうと、個人であろうと、善いものは評価し悪いものは批判する姿勢である。創価の良い点があれば正当に評価する。人間として当然の姿勢であろう。

だからといって、ダメ出し氏が『創価系・創価脳』というレッテルを貼り攻撃をするのは如何かと思われる。以前の記事でも、私のことを『創価莫迦ツドウカ』『半端な創価狂学莫迦』と酷いレッテルを貼り攻撃してきた。

なお、私の主張はブログ開始当初から終始一貫している。何も変わってはいない。戒壇本尊に関しての見解もそうである。疑問点は隠さずに記事に書いてきた。

ダメ出し氏は、他人様のブログを部分的にしか読まずに、勝手に決めつけてレッテルを貼る人物であることが明らかになった。非常に残念である。

本物は科学的検証と相反しない

私が戒壇本尊の科学的検証を提唱したのは、最大の理由は未来の信徒の為である。記事(リンク)の断片だけではなく全文を読んで頂きたい。

もしも、戒壇本尊が科学的検証・文献学的検証に耐えられないのなら、それはただの迷信の産物に過ぎない。ありとあらゆる疑惑を検証し、それでも残ったものにこそ本物の価値がある。

純粋に日蓮仏法を信じる者ならば真実を求めるべきである。妄信に陥ってはならない。

疑問を持つことも許されない

「日蓮仏法(大聖人を御本仏と崇める)を信じるものは少しでも戒壇本尊に関して疑問を持ってはならない」「歴代法主に対して疑いを持ってはならない」このような姿勢では視野狭窄の信仰しかもたらさない。

少しでも疑問を持った者を、或いは真実を求める者を「不信だ! 無信心になった! 謗法だ!」と悪事のように扱い、攻撃の対象とする。これが『大御本尊・原理主義者』の姿勢なのである。

都合の悪い事実から逃げ続ける姿勢

彼が反応すべき点はそこではない。戒壇本尊の検証された事実にこそ反応すべきなのだ

ダメ出し氏は、戒壇本尊に対しての疑惑にただの一度も答えていない。戒壇本尊が法主の書写と異なる点(リンク)、戒壇本尊が御本尊七箇相承と異なる点リンク(御本尊七箇相承が)日興上人書写の本尊と異なる点リンク、彼はこれらの点をスルーして逃げ続けている。事実を直視しようとしないのだ。

都合の良いことだけ反論し、都合の悪いことはスルーする姿勢では、日蓮仏法の真実には到達できないことは明らかである。



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